同じような機会を『同じような機会』と感じるかどうかは自分の何に依存するのだろうか。という話。
最近ちょっとだけ、言葉にするのが難しいなぁと思う、けれど誰かに聞いてほしいというか一人では消化できないなと思うような、かといってSNSに投げるのもなんか違うなぁ、でもやっぱりこのぐるぐるした気持ちを産んだ出来事について誰かに聞いてほしいなぁ。と、思うことがあった。
結局カフェで一時間かけてそのぐるぐるの出来事をメールにつづり、「返信はいらないです。でもいつかこの話を直接したいです。」と付け足して、とある人に送信した次の日
「そこから何を気付き、何を学び、次に同じような機会(同じような機会だと(私)さんが思った機会)にそれを生かすしかないですね。」
という返信をもらった。
(実際にはもう少しいろいろつづった返信をいただいた)
同じような機会を『同じような機会』と感じるかどうかは自分の何に依存するのだろうか。
同じような場面と機会はどう違うのか
場面:①(事の行われている)その場のようす・光景
④人の個々の行為を成り立たせている環境・状況。
機会:何かをするのに好都合な時期、おり、しおどき、チャンス。
ー引用『広辞苑』
同じような場面に遭遇してもそれは私にとって今回と同じような機会ではないのだろうな。
そりゃそうだな、今回の事だって、初めて起きた衝撃もあったし、そして初めては一回しかないわけなんだし。
『(同じような機会だと(私)さんが思った機会)』というちょっとした一言のある返信を見て改めて、この出来事は確かに私に起こった出来事であるし、これからどうするかも私が考えるべき事であって、
誰かにこのことを追体験してほしいわけでも、自分の考えへの同意が欲しいわけでもないのだとしっかり自覚ができたのでした。
なにかとシェアの時代に生きていると、自分の体験だけでなく感情すらもシェアしてしまう事が無意識にあるなと。
そして、私も無意識的にいろいろな人から様々な方法で多くの感情をシェアされてきたんだなぁという事にも気づきました。
このことに気づいたから、では〇〇するときはこうしよう、とか、そういう決意をしたいわけではない。
ただ、そんな事に(もしかしたらやっと)気づいたというお話と、『同じような場面』と『同じような機会』は違うし、『私が同じような機会と思う機会』もまた別なのだ。
というお話。