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テクノロジー読書(術)
Audibleの購読を止めた。なんか疲れ果てていたからだ。アホみたいに情報を頭に入れる中毒者みたいな私だが、読書が趣味だったところから、「読書は仕事」になったときからあまり紙媒体の読書が自由時間でできなくなっていた。だから「なぜ本が読めない」本を買ってみたが、余り参考になることは書いてなかった。Audibleを惰性で聞くのはよろしくない。ただ、ためになったと思った何冊かは結局紙の本も買って、改めて目を通した。
本業で「読む」について、数年前から論文を音読してくれるサービスがあって、それはあまり効果がなかったんだけど、最近になって、概説書とかHandbook系の「おおざっぱに全体像が把握しておきたい」読書の時に、Kindleの読みあげ機能とか、スクリーンリーダーで音で内容を入れるようになった。目が疲れて頭痛になりやすいというのもある(強度な近視で)から、目に優しい読書としてもありだ。
とはいえ、聞き流すだけだと余り頭に残らないから字面もいっしょに眺めるが、とにかく「つっかえずに読む」ことができる。読書自体はどっちかというと能動的な活動で、自分のスピードで流し読みしたり、じっくり読んだりできるのだが、読みあげ機能だと一定のスピードで受動的に情報が入ってくる。授業をボケーッと聞いているときみたいだ。(ボケーッとしちゃいけないんだが本来は)
これを一度やったあとで、ちゃんと振り返って読んで、考える時間を取ると、なおよし。
これ、私にとっては擬似的に授業受けてる体験になるんだな、と気づいた。基礎的な情報をもっと入れたいとき、受動的に情報をインプットするすべがあるのだ。能動的に調べることももちろんいいのだけれども、ムラがでる。授業を受ける意味は、作られたカリキュラムの全体を通しで聞くことにあったんだなあ、と思う。そしてそれはどちらかというと話し言葉に近い文化で行われた方がよい。書き言葉を読むという経験は、やはり「探す」みたいなところがあるから「教わる」経験と質が違いすぎるのかもしれない。
もういちどテキストを読むのは「復習」。そう、復習をして頭を整理するところまでが「授業を受ける」だったよね。