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岡部えつ(2024)怖いトモダチ —本当に怖いのは、自分かもしれない

#読書記録

ウェブ漫画連載の方を読んでて、原作小説があるじゃん、と急に気づいて、先日思い立って購入して、一気に読んだ。

旧友がオンラインサロンで成功しているのを発見してしまい、関係者を追いかけるという話。インタビューで聞いたことという体裁+追いかけている旧友が書いたブログ記事という構成で、「認知のゆがみ」あるいは「認識のズレ」を浮かび上がらせる。この人を人として見ていない旧友が、一体どのように自分の都合の良いように世界を、人を解釈しているのか、わかってくるとゾッとする。そしてそれがなぜか熱狂的に受け入れられている世の中が怖い。

正直、こういう現実をねじ曲げて周りの人を食い潰す人に思い当たる節がある。そして、それで参ってしまった人も知っている。そういう人を恨んでしまう気持ちもわかる。

普通の人はある程度良心があり、共感できる部分があると思って他者に接している。しかし、相手の「人間」モデルが自分と異なるとき、いともたやすく「性善説」を信じている私たちはコントロール下に置かれてしまう。だって、「普通の」人であれば、このような感情を持っていて、だからこういうことを言ってきているのだ、という想定があるから、相手がそうではなく「傷ついたフリ」をして見せて、こちらをコントロールしようとしているなんて、思わないからだ。というか、そんな風に人を疑いながら生活したくないのだ。

しかし、「ソシオパス」はいるし、立場が上下になるととたんに共感性0で支配、機械のように言うことをきかないのはおかしいと思って対応してくる人がいるらしい。

それに気づかずにのほほんと30歳頃まで生きてこられて、とても幸せだったなと思うし、それ以降の10年間は常に「良心をもたない人たち」を発見する毎に、アイデンティティは揺らぐし、ずっと疲れてきた。

人を疑わなければならない=性善説で生きられない自分を発見する毎に、性善説で生きようとしてきた自分は全然目が見えていなかったなと思ったし、マイノリティ側に立つようになると、立場が変わると突然掌を返してくる人たちなどにも遭遇するようになって、より確信が深まっていった。

いわゆる「やばい人」(ここでいう「怖い」トモダチ)に遭遇することによって、人は動揺するのである。

そして、動揺しながらも、今までも実はやばい人に遭遇してきたし、ただ私が「見たいようにしか見ていなかったからだ」と気づく(つまり自分が「怖い人」だった)。それが恐ろしいのであった。

「怖いトモダチ」オススメである。漫画をちょっと読んで、これはと思ったらぜひ小説版を。何か心当たりがある場合、以下の本が、参考文献になると思う。私もソシオパス気味の人たちに遭遇したな?と思ったときにいろいろ読みあさったのであった。


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