「考える癖」を身につけるだけで勉強が必要なくなる。
こちら「中高生に絶対見て欲しい。高三の私が12年間学校という教育機関に通ってようやく理解した勉強の本質。|檜村奏太 @rgzztv #note https://note.com/rgzztv/n/n311e01ac6718」
の続きとなります。というか関連と言った方が近いですかね?とりあえず普通の平凡で凡人な高校生の生の声第二弾です。
前回私は「勉強」の存在意義について持論を述べた。
だからこそ、今回は私の「勉強すること」の意義についての持論を述べようと思う。
私は「勉強」は自らの知識欲を満たし、新たな世界への扉を開く素晴らしいものであると考えている。
だからこそ勉強はするべきだ…とは思ってはいない。確かにこの世の中は勉強しなければ生きていくことすら出来ない。勉強が出来なければ豊かな人生は見えてこない。これは普遍的な社会の(悪い)習慣として浸透してしまっている。
しかし、私は勉強というものは2つに分けられると感じている。昨年お茶の間を賑わせたセンター試験改革案は、私からしたら「これで改革とか笑わせんな。時間も金も無駄にするだけの無能なら今すぐ政治家やめろ。」と言いたかった。
個人的な改革案として、
国語…知識を問う問題(単語の意味、古文常識、漢字)と、その人の考え方を問う問題という二部構成
数学…筆記問題(これを何故やらないのか訳がわからない。やらないメリットと言えば採点が楽になるくらいだろ。)と分析問題
英語…社会情勢に切り込む筆記問題とリスニング(問題形式は選択)。外部検定ではなく、大学入学後に英会話力を基準としたクラス分けテスト
理倫政…何故そうなるのか説明させる問題(これオンリーでも良いくらい)
史学…そもそも統一系の入試には必要なし。
位のことはやってくれないと困ると思っていた。
個人的に高校までは「勉強」は全く必要ないと思っている。大学を受験するために皆勉強を一から始めるが、それも勉強とは言いがたい。いや、語弊がある。役にすらたたない勉強だと言えるか。
私は発達障害の疑いがあったため、一年前にとある能力テストを受けた。その時のテスト項目で、私はとある能力が全人類上位5%ほどに入っていた。しかし空間認知能力が低いために、とんでもなく不器用で、脳からの情報がうまく伝達されていないという結果だった。面白いくらいにこれまでの経験と当てはまってて感嘆の声が漏れたのを覚えている。
話を戻すと、その能力テストでは正解を出すことより、「概念」や「そこに至るまでのプロセス」、ということを重視していた。能力を測る上では理想的なテストと言えば良いか。このテストは大学入試では使えないが、似たことはできるのではと感じた。
知識を詰め込むための勉強なぞ、私は捨ててしまえと思っている。そんなことのために高い税金と学費を投じて学校に通うのはアホらしいとすら感じている。そんなことに「教師」は必要ない。教科書をひたすら暗記して、書かれている構文なり公式なりを覚えることに意味はない。ただ教科書にかかれていることを解説するだけの勉強は暇(=無駄)なのである。
真の勉強とは何か。それはDebateだと考えている。というより何故小学生の頃からそれをしないのか不思議で仕方ない。せっかく好奇心旺盛で、学習意欲も高いのに、知識を詰め込むためだけに6年も掛けるのだ。こんなことを言ったら「学校の真の意義はコミュニケーションスキルが~」とか訳のわからん的外れな反論が来そうだが、マジで12年間の時間を返せと言いたい。
もちろん知識は必要だ。私が言いたいのは、知識を着ける=勉強という公式は捨てろと言いたいのだ。
どうしてそのように考えたのかを紙(今だとPCか?)に書いて提出するとかした方が圧倒的に身に付くだろうに。さらに言えば、答えを最初から明示しておくべきだ。教師がやることはそれだけでいい。教科書はこの段階では必要ない。
それを導き出すためにDebateがあるわけだ。
教師は生徒に自分の仕事として勉強(擬き)をする場を設けているという事実にいい加減気がつくべきだろう。
私からしたら、受験勉強の意義すらわからない。理解に苦しむ。何故「無駄な」勉強擬きをして大学に行かねばならんのだ。そんなことをするくらいならはじめから専門書でも漁って置く方がまだ早い。
考えられなければ大学の講義にはついていけないし、生きていけない。
※ここから先は経験談
私は一般的な「テスト勉強」を高校に入ってマトモにしたことがない。テスト期間に入ったらニュース系の記事や本を読んでおくだけ。必要な知識は少し反復して覚えておくだけという形だ。
なんだかんだ6年で29回の定期考査が私の学校生活の中で一番楽しかった事かもしれない。体育祭でも文化祭でもなく(一言言っておくと、私からしたら文化祭等の出し物を決めたり、そのために動ける人は素直にすごいと思ってるし、それを楽しむ人達は輝いて見える。ただイキり勘違い野郎はいらない)。何故ならば「思考する環境を自分で作れる」からだ。
面白いことに、テスト勉強が不十分だとテストにおいては考えることで解ける問題がたくさんあることに気がつく。その問題に向き合って、何故そうなるのかを自分に説明しながら解くのがとんでもなく楽しかった。そのためか思考系の問題の正答率は異常に高かった(個人的に一番イラッとしたのは下手くそな文章読まされて、「この文章どゆこと?」という現国の問題。筆者すら文章が迷子になってんだからこっちにはわかるわけがない。問題製作者はどのように解釈したのか非常にその手法に興味がある)。私は皆が思考系の問題を嫌う意味がわからないのである。
反面知識を溜め込むのが苦手ということもあり、知識問題(英単語等は特に苦手だ)はそこまで点を取れてなかった。
私は小中と色々あって一時期人間不信かつ女性嫌い(ホモではない)になっていたが、何だかんだで思考することが楽しかったし、自分の感情や思考を分析するのが楽しかった。
そのようなこともあってかこのような文章擬き(とも呼べないナニカ)を書いたわけだが、これを見た教師の方はちょっと実践してほしい。ちょっとではないな。ガッツリと。人生の後輩に意味のある時間を作ってあげてほしい。