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年の差が20歳で結婚生活20年になるといろいろありますので少しずつお話⑥

叱り飛ばされる

親にも言われたことがない

心身クリニックは、ほとんど毎週の診察となりました。それから今までの20年、先にも述べたように、先生が入院などしない限り、ずっと毎週か2週間に一度で受診しています。
他の患者さんが次の予約を確認するときに、1カ月先、2カ月先、3カ月先などがよくあるので、私の場合はよほどのことがあるのだろうと思っています。

確かに、学校の仕事も一生懸命やり、学校外での音楽活動も盛んに行い、いつもばたばたとしていてます。それで「うつ病」の「症状」というのか何かわかりませんが、いろんな不安や恐怖と闘っているのですから、先生も心配だったのだろうと思います。また、「自己治癒」のことも言いましたように、珍しい症例として、興味があったのかも知れません。
その先生の期待に添うように、このあとも、人生上の変化が劇的に起こります。

初診のころは、大学附属小学校で授業研究と教育実習生の指導という公立学校の仕事に上乗せして、なかなか大変な仕事が日常的にありました。
周囲より少し年長であったこと、県の全域からそれなりの教員が集められるなかで、自宅が近かったこと、地元の公立学校にも努めていたことなどから、あれこれと小さな役目は早いうちからいくつか任されていました。

担任ではなく音楽教科の担当で、高学年の副担任もしていました。その前の学校では高学年の担任ばかりをしていたので、授業研究はどの教科でも自分の実践に基づいた意見が言えます。それで、毎週の全員による「研究会」では、何かにつけて意見を出していました。さらに、全体の生活指導面などでの書く教員の水準を合わせるために、本当に細々としたことまで、毎週の「職員会議」で分厚い資料をもとにして話し合っていました。
私は、毎日の時間設定が児童に余裕がないことや、ランドセルや制服などを性別で色指定することなど、どんどんと話題にし、改善を求めていました。

そんなことで、授業について、生活指導について、教員としての心構についてなど、何人かの教員が私にふだんからあれこれと意見を求めるようになっていました。私も調子に乗って、役に立つ存在になっていることに自負心を持っていたところがあります。

「こういうことがあったので、こういう風にしたら、喜んでもらえました」と心身クリニックの先生に報告します。毎回、「この一週間はどうでしたか」と尋ねられるので、その間に自分が、不安や辛さを乗り越えて頑張っているのを伝えて、先生にも認めて欲しかったのです。

「余計なことをするね。君は、よかれと思ってやっているのだろうが、それが相手や周囲にどれだけ迷惑になっているのか、考えたことがないのだろう」

最初は先生の言葉に耳を疑い、「それでも・・」と反論します。
すると先生はさらに追い打ちをかけて来ます。
「そういうことを良いことだと思っていることが、実は、周りに迷惑や負担をかけていることを君は気付いてない」
「しかし、自分が言わなければ、解決も改善もしないのですから・・」
「そんなことはない。君が勝手にそう思いこんで、それを先走ってやってしまっているだけだ。それに、あれもこれもと数が多い」

簡単に言えば、何をやっても、ほとんど叱り飛ばされるように、ボロカスに言われるのです。さすがに、先生にボロカスに言われると、腹が立ちます。2,3日は不愉快で仕方がありません。それでも気を取り直して、「研究会」や「職員会議」などや、個人的な相談で、前向きな提案や意見を出して、そのように方向付けます。
すると、また次の診察で、ボロカスに言われます。
その言い方や、内容が、親にも言われたことがないようなことでしたので、本当に診察に行くのが気が重く、むしろこの診察のせいで病気になっているのではないか、と思うこともあるほどでした。

少しずつ少しずつ変化

それでも、指定の日時が来ると、「今回こそは、先生に認めさせる」と意気込んで行くのです。
そして、「これこそは」と私が思っていることほど、きつくボロカスに言われます。
そういうことを、1年も2年も毎回の診察で繰り返していました。
「余りにもきついことを言うというので患者さんに人権侵害だと訴えられかけたり、別の病院に逃げられたりしたこともある」
先生は、こちらのことをボロカスに行ったあと、よくそのようなことを付け加えます。私は、「その気持ちはよくわかる」と心の中でつぶやきます。

私は、学校で仕事をしていても、家で「サバ」といても、頭のどこかに心身クリニックの先生がいるようになってきました。
最初は「負けるか」と思いました。
意地悪な先生で、五月の連休の前は「連休中は自ら命を絶つ例が多い」といくつも具体例を話します。
それを聞くと、机の上のカレンダーの上で先生の指先が示している日付を見ながら、「絶対にその日にここへ来て、先生に顔を見せてやる」と思います。実際には、連休中は学校の仕事も外部の音楽活動もあって、大変忙しく、心身ともにへとへとになることもあり、また思うようにできなくて気がめいることもよくありました。
そのころは、まだ「狭いところ」「高いところ」「一人で過ごす時間」「列車やバス」などへの恐怖が克服できていませんので、そういう自分の状態へのもどかしさもあります。

かなりあとになってから、「最初は先生が怖くて怖くて、どうしてここまで言われなければいけないのだろうと思っていました」。
そう先生に告げると「それは失礼しました」と平然と言うのです。
「それに連休や休みや、こちらがかなりきついなと感じていると、いろんな事例をあげて、その理由を分析しながら、自分で命を絶つ人の話をされる。それを聞かせていただくたびに、必ず、次の診察にもここに座ってやろうと思いました」
「そんなこともありましたか。いやあ、いろいろと、追い込まれるのも、かなり手が込むことがあって、あとで原因を調べるときっかけは別にあっても、本当の理由は、もっと複雑なことが多いので、参考までにとね」

そういう診察を毎週受けていると、さすがに、全身に入っていた無用な力が抜けるような感じにもなります。
また、会議で発言したり、誰かに意見を求められて答えようとしたりすると、以前よりも、一呼吸おくようになりました。
そうすると、周囲も、以前よりも耳を傾けてくれるようになってくれる気がしました。
そのようにして、少しずつ少しずつ、私はこの心身クリニックで、神経質なところや、時に自分を守るために心を固くするようなところを、ほぐされて行ったように思います。
もちろん、これも、あとから思うことで、そのときは、毎日の仕事や活動、毎週の診察のたびに、相当に切羽詰まっていたのが実情です。

自分のことを知る

その心身クリニックの先生は、大変な博学でした。
私も、音楽はもちろん、文学や歴史など、正直に、ほとんど私が話したいことをまともに対応してくれる相手がいなくて、つまらない思いを長くしていたのでした。
ここのところ余り話題にならない20歳年下の彼女も、音楽のことはいくらか会話ができても、それ以外については、ほとんどこちらが一方的に話すくらいのことでした。

まず驚いたのは、心身クリニックの先生が、クラシック音楽に相当くわしく、演奏会にもよく行かれているということでした。
上手く時間が合うときは、私の指揮をするオーケストラや合唱も聴きに来てくださいました。
先生は、作品や作曲家について、幅広く知っていて、しかも職業柄、その作曲家の病気や死の原因まで教えて下さることがあります。
また音楽の専門的なことで気になることはメモを見ながら私に質問することもあり、その説明を熱心に聞いて納得してくれます。
同じようなことは、画家などの美術家についてもあり、これの方も、私が若い頃からたくさんの展覧会に行くほど好きなものなので、あれこれと意見を交換したりできます。

そうなのです。診察は怖いだけではなく、趣味のような話になると会話が大変楽しいのです。
先生は、文学についても、歴史についてもくわしく、いきなり、普通の人では知らないような話題をしてくることもあります。
これもあとでわかったことですが、病院のスタッフの方によると、
「先生は伊東さんとお話するのを楽しみにしているところがある」とのことで、「それで時間が伸びて困ることも多いのですが」と苦情のようなことを言われたこともあります。

もちろん医学関係については、専門家の先生から、心身系だけではなく、ストックホルム症候群などと、いろんな、医療関係で世間で言われる常識とは違う話も教えてくださることが多く、大変ためになります。
反対に、のちに私が教育書を執筆してお渡ししたら、次までに読んでいてくださり、「君は文章がうまい。素人にもわかりやすくて大変面白かった」とほめてくださいます。
「文章がうまい」はこのような文章を見ていただいてもわかるように、自分でも決してそうは思えません。ただ、もっと型ぐるしい内容の、論考や分析が中心になったり、学術的な論文のような文章になると、読みやすいのかも知れません。
これは、大学や大学院の恩師など何人かの専門家の方々にも、「君の文章はわかりやすいし、おもしろい」と言われていました。
本当の誉め言葉かどうかは、思い返すと定かではありません。

心身クリニックの先生は、ときには、ほとんど自分ばかりが話したいことを話し、こちらに尋ね、診察が終わりそうになって、私が慌てることがあります。先生の指が、カレンダーの上で次回の日程の方へ動き出すときに、
「今週は・・」
と自分のことを話して、診察してもらう、というようなこともしばしばです。
けれども、これも、あとから思えば、もうその病院に行くようになってからかなり経ってからで、そのときどきで、先生の話題は私の生活や活動、場合によっては季節や周囲のとの関係などに、うまく合わせて選んでいたようでもあります。
私に聞かせたり、私に話させたりすることで、学校での大変な仕事の期間や、音楽の大きな本番の前後に、合わせていただいていたのはあるでしょう。
でも、明らかに、先生自身が、たとえば来日した著名な演奏家のコンサートに行ってきた感想を誰かに言いたいとか、今度行くコンサートの聴きどころを見つけたいとか、そのような目的でとの会話を待っていたということも、確実に何度かあります。

そして私は自分の父親を大変尊敬している。それも、先生に言わせると「異常な例」になるそうです。
私の父は家庭では大変厳しい人でしたが、世間では「笑顔」と「話し上手」が売りで、しかも音楽に関しては技術も能力も高い人でした。
さらに教育者としても、戦後間もなく市内の中心の中学校の教諭と付近のいくつかの高校の非常勤、若くして県の教育委員会の音楽と幼児教育の担当、また若くして校長、校長会会長、私立短大幼児教育学科教授などを歴任。
さらには、音楽文化の向上発展振興のために、戦後間もない中学や高校の吹奏楽部の立ち上げ、加えてNHK放送児童合唱団によるラジオの生演奏を含んだ活動など、そして地域の音楽祭の創設などと活動していました。
他に、この地域のピアノ教師の先駆者でもあり、地元の作曲家でもあり、NHKや大手楽器店や教科書会社から「専属」になってもらいたいと、何度も誘いがあったとのこと。

これらのほとんどの私の知らない父を、この父の突然の死去をきっかけに一挙に知らされ、告別式などを終えて一区切りついたときに、病院の集中治療室で、「俺は死ぬ、大好きだ、ありがとう」
と叫んで彼女を抱きしめ、それを見ていた医者に、この心身クリニックへ紹介されたのです。
だから、心身クリニックの先生は、ほとんど最初のころは言いませんでしたが、かなり親しんでから、「君の父親への異常な尊敬の気持ちとコンプレックスは、極めて珍しい」と言うようになりました。
とりたてて、こうして書いたのは、先生からこのように言われるまで、私は私のそういうところにまったく自覚がなく、世間の人々はみんな父親を尊敬している、と思い込んでいたからです。

こうして私は、博学な先生のおかげで、いろんな自分を再発見したり、父親に対する特別な気持ちを知らされたりして、自分を知るのです。
ところが、これだけでは終わらず、この数年後に、さらにとんでもないことになってくるのですが、それは次回か次々回になります。

公私ともにめでたい

長女誕生

長男が生まれたのが2003年の暮。
私の父が亡くなって私が心身クリニックに通うようになったのが2004年の晩秋。
2005年の春先に長女が産まれました。このときも長男のときと同じ産婦人科でした。まず驚いたのは、長男のときはあれほど騒いで実家の母に
「静かにしなさい。みっともない」
と頭をぴしゃぴしゃ叩かれていた彼女が、長女のときはほとんど何も騒がずにいたことです。そして
「あー、もうすぐ産まれる」
と言い、助産婦さんも「そうですね」と言ったとたんに、また私は割烹着のようなものを着せられて、当然のように分娩室の中へ誘導されました。

彼女の枕元で手を握りながら、こちらはドキドキしていますが、彼女は平気な様子で、間もなく恰幅のいい医者が来ると、あっと言う間に赤ちゃんが出てきました。
そのとき、私は、もう少しで手を合わせるところでした。
とにかくものすごく驚いたのです。
産まれたばかりの赤ちゃんの顔が、亡くなって間もない私の父にそっくりだったからです。
「お父さん、そんなに、この息子が心配ですか」
そのとき心でそんな言葉を私は言っていました。そうとしか思えないほど、先日別れたばかりの父が、もう現れた、というようにしか見えないのです。
赤ちゃんはとても元気で、産まれてすぐに大声で泣いています。長男のときは、少し間があったので、医者が何かをしていたのを思い出します。

話はものすごく前後します。
長男が産まれて、しばらくは、先生と呼ばれながら3人で暮らしていました。3人とは言いましたが、前の⑤を読んでいただいた方はそこに「サバ」もいます。
「サバ」は元気になって私と生活するようになってから、毎晩、私の布団の私の顔に近いところで一緒に寝ていました。
彼女といっしょに住むようになって、私と彼女が仲良くしているときは、少し離れたところにいますが、しばらくすると私の近くで寝ます。そのときの気分もあるようで「サバ」が彼女と私の間にわざわざ入ることもありました。

赤ちゃんが生まれると、さすがに赤ちゃんと「サバ」をいっしょに寝させることはできません。赤ちゃんを挟んで彼女と私が寝るので「サバ」には、部屋の外の寝床に寝てもらいます。
けれども「サバ」はそんなことを簡単には許してくれませんでした。ずっと部屋の前で鳴いていて、結局、入り口を開けて入ってくるのです。
それで仕方なく、入り口には内側から鍵をつけました。
寝ようと思っても「サバ」の声がずっとするので落ち着きません。
それで、彼女と話し合う、というよりも、「サバ」と話し合ったようなぐらいの気持ちですが、私は2晩を赤ちゃんと過ごし、そのあとは別室で1晩「サバ」と寝る、ということにしました。
「サバ」がそれを早くに納得してくれて、私がどこの部屋に行くかで、自分の寝場所を決めてくれるようになりました。
もちろん私が「サバ」と寝る部屋に行くと、もう「サバ」は喜んで一晩中甘えてくるという感じでした。

それに比べると、彼女の方が「サバ」よりもさっぱりしている感じです。
女性は、出産すると変わる、と聞いていましたが、本当に、娘から母になるというのは、ものすごい変化だと思いました。
それまでは「先生」と甘えていたのに、いつの間にか、私まで子ども扱いのようになっているのです。
そういう日々に、これも以前に言いましたが、赤ちゃんと彼女が階段から落ちてきて救急搬送されるということがありました。
それ以来、それまでは、赤ちゃんと寝る部屋も、「サバ」と寝る部屋も2階にあったのですが、赤ちゃんと寝る部屋を1階に移したのでした。
ですので、父が実家で倒れたとき、隣のリビングの電話の声がよく聞こえたのでした。

長女が誕生すると、一カ月ほど彼女は長男も連れて実家の方に移動します。
あれこれと不便にはなりますが、とにかく「サバ」が毎日毎晩、私といっしょに寝ることができるというので大変喜びます。
また、父親が亡くなって、長女を宿していた彼女のお腹が大きくなってきたころは、音楽仲間が男女問わず、いろいろと家に手伝いに来てくれていました。
赤ちゃんの頃の息子の写真を見ると、いろんなところへ行っている写真に、付いてきてくれている音楽仲間が映っています。
長女と彼女が家にもどって来てからも、音楽仲間が助けてくれるので、いろんな音楽活動も以前のようにやれるようになっています。
「サバ」も私の音楽仲間にとてもかわいがられて仲良くやっています。

変わったことと言えば、私が心身クリニックに毎週通うようになったことで、8割は、先生から厳しい指導や指示を受けるようになったことです。
そしてもう一つは、子どもを2人も産んだ彼女は、それまで私の知っていた彼女とは、ほとんど別人のように、たくましくなり、はっきり自分の意見を言うようになり、ときにしてそれまでにはなかったような生意気な言動も見せるようになりました。
それを心身クリニックの先生に言うと、「それが女性だ。当たり前のことだ。女性はもともと一人一つずつ自分の宇宙を持っている。もう君は、奥さんの子どもになった。序列からすると、2人の子どもと猫の次の最下位。そう思いなさい」と言うのです。

学校での役割

長女が生まれたあと、教育実習の担当責任者になりました。
大学附属小学校なので、毎年、大学から夏休み前の2週間と夏休み明けの1カ月は、それぞれ50名、100名と実習生が来ます。
各教員は、自分の授業研究をしている教科に合わせて実習生を引き受け、だいたい一人の教員が7名前後受け持ちます。
私は音楽教科で、音楽専攻の学生と、音楽に関心があったり幼児教育との関連を考える学生を担当していました。
2005年の4月からは、実習生全体の世話をする責任者となり、他の4名の教員と毎日、狭くて電源の少ない部屋に閉じ込められた多数の学生たちの、心身の様子や安全管理などをします。
何でも「改善」したくなる私は、前々から気になっていたので、スタッフと話し合って、学生の「苦情窓口」を作りました。学生たちにはとても好評でしたし、大学の指導教員にも歓迎されたようですが、小学校の管理職などには大変イヤな顔をされました。
私の勤務していた附属学校では、校長は大学の教授が持ち回りで担当しますが本務が大学の授業なので、特別な場合をのぞいては、決まった曜日の限られた時間にしか附属へ来ません。
それで、公立学校の校長級の人が、副校長として実際の管理職の中心となり、教頭がそれを補佐します。

当時は、さらに教頭の補佐をする管理職的な主幹教諭などという立場はまだありませんでした。
それで、校内分掌という学校風土の生み出した教員の係り活動みたいなもので、教育実習担当、公開授業研究会担当、附属間交流担当などと具体的な仕事が割り振られていました。
私が教育実習委員長という立場だったときに、印象的なことが2つあります。どちらも、実習生目線で発想したことが、大学生や大学に予想以上に評価された、ということです。
でも、あとに続いたかどうかも疑問ですし、そのような事実も、既に過去の闇に葬られているかも知れません。

1つは、先ほども述べました「苦情窓口」で、学生たちが信用してくれなければ成り立たないことなのですが、「先輩たちに聞いた」という実習のよくないことを少しでも本音を出して「改善」できることはしようとしたものです。
学生の学校を出る時間は7時と決められていましたので、それを担当教員に守らせること、配布する指導案のための印刷機が少ないのでPTAや事務室のものも使えるようにすること、パソコンの電源の確保、暑さ対策、休養室の設置などなど、スタッフの同僚も「やりましょう」と強気でしたので、学生のためにがんばりました。

そして、実習最終日。実習生が全員体育館のステージに上がり、代表が全校生徒にお別れの挨拶をする恒例行事のときです。
教育実習は本当に大変なんです。教員も大変ですが、学生はほとんど睡眠や食事もできずに、何回も研究授業をします。最終日の前日までします。
「では、今から全員でお礼の歌を歌いますので、聞いてください」
私は、本当にびっくりしました。
曲名は忘れてしまいましたが、よい歌声で気持ちのこもった混声合唱が体育館に響きます。

なぜか私はステージの上の学生の後ろにいた記憶があるのですが、目に涙が浮かびました。
こんなことは、これまでには一度もなかったし、聞くところによれば、その後もないようです。
ただし、この話も心身クリニックの先生に伝えたら、「学生たちも君も、また生徒たちも、それでよかったかも知れないが、顔がつぶされたと君のことを恨みに思う者は必ずいる。余計なことをしたもんだね」と、また厳しい言葉を言われて、2,3日はせっかくなのに水を差された気分になりました。

もう1つは、その実習生たちがいるとき、地元で生まれ育った私が経験したこともない集中豪雨がありました。記録では1時間で100ミリという雨量です。
附属小学校は高台の上にありますので、他地域から来ている副校長や教頭、同僚たちは「よく降るねえ」とか呑気なことを言っていますが、私はすぐに「もともと海抜の低い市内は至る所で冠水し、列車が止まる」と思いました。

それで、副校長に「列車が止まったら学生が帰れなくなるので、今日は今すぐ学生を帰宅させます」と言いました。たぶん、昼の12時半頃で給食の前だったように思います。
今から思えば私にそんな権限はないのですが、児童のことは学校の管理職が責任者でも、実習生は大学生で、大学の学部長や学長が責任者になるのですから、実習委員長としては、そちらのことを考えるのが当然だと思ったのです。

副校長は、「児童については他の附属学校と相談して決めなければならないが、実習生は、担当は君だからそのようにすればいい」と、半ばまだ事態がわかっていない様子で言いました。
それで同僚のスタッフとすぐに実習生を集めて、今すぐ帰宅するように、と伝えました。

結局、それから間もなくして列車が止まりましたが、100名近い中で1人だけ、遠方だったので列車に間に合わず、駅近くのホテルに泊まったそうです。その費用は大学が出しました。
これはあとから、大学から、学生の安全を優先してくれた、と小学校は褒められたそうです。その言葉を受けたのは、私ではなく、副校長で、自分の手柄のように褒められたことを喜んでいました。

ところが、この副校長は、肝心の附属小学校の児童の下校の判断が遅れ、中学校や特別支援学校が先に生徒を帰宅させているのに、全職員を集めて、既に道路が冠水し列車が止まってから、確認した保護者に児童を担任が引き渡す、という安全策で帰宅することに決めました。それが昼の1時過ぎだったと思います。

大学生を帰してから1時間もたたないうちに、学校周辺は大変な洪水になっていました。海水や河川の氾濫に備えて作った堤防が、降りしきった雨をため込む形になって、街が水没し、附属小学校がひょっこりひょうたん島のように浮かんでいる、という感じです。

私は、滝のように天から落ちる雨を見ながら、実習生たちが無事に帰宅できているのを願い、児童の下校については「遅い、遅い、判断が遅い、怖さを知らないから」とずっと思っていたのを記憶しています。
泳いで来た保護者、冠水して車が止まった保護者、職員室の電話が鳴り続けていました。

最終的に、最後の児童を保護者に引き渡したのが、夜の9時です。
「こんなことになるとは、想像もできなかった」
と副校長がぼやきますが、私が「実習生の安全確保は大学全体の問題」と進言したときに、「想像できたはず」だと心の中でつぶやいていました。

例によって、この話も心身クリニックの先生に伝えると
「基本的には君は正しく、しかも素早く判断し実行したことで守られた学生や学部は感謝しているだろう。しかし、余計なことをしたことには変わりない。君はこれで自分に自信をもったのかも知れないが、それ以上に、多くの敵を作ったことになる。極端なことを言えば、それは大学や附属の責任者が決めることだと、君は知らない顔をしていればよかったのだ」
とまた、2,3日、というよりもっと長く、もやもやとする気持ちになることを言われたのでした。


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