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「すごい」のは「偉い」のか
私には中学と高校にそれぞれ通う従姉妹がいる。彼女たちはお世辞にも頭がいいとは言えない。それ故に、家族として精一杯の援助をしていて、毎年会うたびに宿題を教えたり、テストの問題で解けない部分を解説し、なんとか成績を上げようとサポートしている。特に次女が危機的状況にあり、大した点を取ってない姉からも煽られる始末である。
そんな従姉妹の次女が先日、学校のテストでいい点を取ったらしい。家族の中では快挙であり、たかがテストの一つなのに祝われる雰囲気すらある。その話をした母が彼女に会った時に「えらかったねぇ〜」と声をかけたという話を聞いた。
この話を聞いて私はふと疑問に思う。
「"すごい"が"偉い"わけではないのでは…?」
こういった事態はよくある。
会社では役職に就いてる人が「偉い」とされる。部長が支店に顔を出せば、センター長含めて社員が仕事の手を止めて気を使った対応を取ることも見たことがある。社会的に不適合な私は、こういったことはやりすぎな気がする、と勝手に思っている。
私は結論、すごいという言葉の代わりに偉いとは言わない方がいい、と考えている。
理由は主に3つである。
①言葉が分かれてる以上、同じ意味ではないから
今回の意見をまとめたいと思って辞書で「偉い」を調べてみた。たしかに意味の中に「程度が甚だしい」、いわゆる「すごい」という意味もある。だが他の意味を考慮すると、それは「何かと比較して」という前提があるように思う。従姉妹のケースで言えば、テストでいい点を取ることは自分のための努力なのだから"すごい"のであり、自分含めて誰かと比較してるわけではないから"偉い"とは言えない。
②偉さは時間の経過の結果で生まれるから
分かりやすい例えとして、偉人で考えてみよう。エジソンは電球を作った人物である。ではそんな彼は電球を作った瞬間から偉かっただろうか。答えは否である。電球の価値が時代を経るごとに高まっていった結果、彼の功績が徐々に評価されて「偉くなった」のである。つまり、ある行為の偉さは何を成したかというより、その事実が後にどの程度影響を及ぼしたかで決まるとも言える。
③他人から与えられる責任は他の人でも出来ることが多いから
偉かったりすごいことには何かと責任が付きまとう。私は責任には2種類あると考えている。「自分が生んだもの」と「他人から任せられるもの」である。前者は起業やYouTuberのような自己責任のことで、後者は会社の役職のようなものである。こうした二項対立を立てると、どっちが偉くてすごいのかという話にいきがちだが、少なくとも後者は代わりが現れる。本当に偉そうな発言だが、極論、会社員はどの立場も誰かの代わりである。そうした務めの一つを任されることは「すごい」が、果たして「偉い」のか…?(歪んだ認知である)
最後に、なんでこんな話をまとめたかったのかということを話して終わろうと思う。
それは従姉妹の長女が関係している。彼女は幼い頃から絵を描くことが好きで、学校で応募しているコンクールでは何度も賞を取っている。それほど自由な発想を持っていて絵心ない私からすれば「すごい」。故に賞を取るたびに「えらいねぇー」という声かけを悪気なく幾度となくしてきたし、彼女はそれを当然のように受けてきた。
その結果、彼女はどうなったか。それが自分のアイデンティティとなった一方で、それを盾に嫌なことをやらなくて済む武器にし始めたのである。それもあってか、次女を煽ってはそれを責められた時に「絵があるから大丈夫」と反抗的態度をとるようになった。
偉いと言い続けたからそうなったのか、元の性格がこうだったのかは定かではない。だが、この一件から私は「言葉を適切に使うことの重要性」を考えるようになった。
言葉には、自分が意図しない理解を相手に与える力があり、それは相手の思考を歪める可能性がある。
どのくらいの人がここまで読んでくれるかは分からないが、読んだ方の胸に少しでも刺さって、言葉の持つ危険性を考えるきっかけになれたら幸いである。