嶋稟太郎さんの時評に寄せて
歌誌『未来』2024年11月号に掲載された嶋稟太郎さんの時評を読んだ。(僕はもう『未来』の会員ではないのでもうどれくらいぶりなんだろう)
それは「フリーライド批判」というタイトルのものだった。
これから書こうとしていることについて先に結論をいってしまうと,嶋さんは「企業が短歌から発生したミームにフリーライドして文化を収奪しようとしている」という旨の時評を書いているけれど,「岡本真帆さんの短歌作品は素晴らしい。その歌がミーム化して流通している状況も愉しく素晴らしい。また,そのミームを利用した企業のコピーには何らの問題がなく,この状況に対する嶋さんの批判には同意できない。これは文化の収奪には当たらない」ということになる。
以下,すこし長くなるが時評の当該部分を引用する。
掲出された岡本さんの短歌はとても人気のある歌で,僕自身もまさにとりわけその下の句に惹かれ,とてもよい歌だと思う。
嶋さんのいうように,この歌の下の句は,SNSでなにかの写真に「ごらんよ◯◯これが△△だよ」というコメントをつけて投稿されることによっても広く認識されておりミーム化している。また,ミームの常として,これも嶋さんがいうように暗黙のルールとして起源や所有が併記されることはない。
さて,今回嶋さんが批判しているのはこうした環境において企業各社がこのミームを使用した広告をX(旧Twitter)でポストしたことである。
嶋さんは,これらのポストは岡本さんの短歌の模倣であり,「ゾッとした。端的に言って文化の収奪ではないか」と批判する。
実際に嶋さんはマクドナルド社に対して問い合わせフォームから「今回の件はモラルに反しているのではないか」との意見を送ったようだが,マクドナルドからの回答は「短歌の引用は行っていない」というものだったそうだ。
詳細なやりとりの文言をこの目で見た訳では無いからなんとも言えないが,実際に当該ポストは短歌の引用をしたものではないから,マクドナルドの回答はこれはこれで正しいだろう。ちなみに,まぁこういった問い合わせではよくあることだが,企業とのやりとり・回答について「意図はうまく伝わっていないようだ」として,思う回答が得られなかった嶋さんのいらだちも分からないではない。嶋さんはおそらく「企業のSNS担当者がこの短歌の存在を知っていたのか。そのうえでそれをいわばパロディ化してポストしたのか。だとしたらモラルがない」といった旨で問い合わせたのではないだろうか。これはあくまで僕の推測だけれど。
だとして,上記のマクドナルドからの回答はすこし言葉足らずだけれど「担当者は当該短歌の存在を知らなかった。今回の投稿は岡本さんの短歌を模倣したものではなく,広くネットに流通しているミームにライドしたものにすぎない」ということが含意されていると考える。
「ミームは、遊びの中で育まれた共創的な文化である。外から来た企業が、安易にミームに乗っかろうとするのは精神が貧しいと思う。コストをかけずにフリーライドしようとする精神を強く批判したい。」と嶋さんはいう。
嶋さんの批判はとりわけ企業のミーム利用に向けたものと読み取ったが,企業がミームを利用した広告を打ち出すことはままあることである。
マクドナルドが「短歌の引用は行っていない」としている以上,同社はミームを利用したポストをしたまでで,これの何が問題なのかは僕にはわからない。
嶋さんの批判は企業に向けられたものだ。これが経済的な利益の有無を基準になされたものであれば,一部の一般ユーザにもそれは当てはまりそうだ。両者のミーム利用可否を分けるものは何なのだろうか。いずれにしても嶋さんは今回の件を「文化の収奪ではないか」と指摘している以上,そもそも"フリーライドによってコストを省こうとしている,あるいは収益を得ようとしている"という旨で経済云々を論うのは筋が悪い。
いちおう経済的な利益が岡本さんにあったかということについて触れると,確かに岡本さんにはなんらの得も無かったのかもしれない。しかし文化という側面から見たときにこの事象は岡本さんの短歌にとって実はとても幸せな状況なのではないかと思う。
ミームとしての構文が広く流通する。そこには確かに岡本さんの名前は無いかもしれない。しかしこれからいくらかの月日を経てこの構文/言い回しが人口に膾炙する。何かのきっかけでそのそのミームで遊んでいた人々のうちには「これは実は岡本さんというひとの短歌が元ネタだったんだ」と知る人もあるだろう。岡本さんの他の作品を読んでみようという読者も現れるかもしれない。なんとも味わい深い状況ではないか。文化とはそういうものではないか。
嶋さんの今回の指摘が文化的な危機感によるものであるとしたら(話をいったんミームの話から短歌作品の話に戻すが)そもそもとりわけ短歌という分野にはそういった手つき,「型」を活用した作歌は古来よりあるのだから,嶋さんの指摘はブーメランという他ない。短歌をつくるということもまたフリーライドに次ぐフリーライドの繰り返しで営まれてきたのではないか。
「今回の企業の行為は、先住民が育ててきた森や湖を奪う植民地支配と同じ構造であり、わたしはこれを軽蔑する。」という乱暴な書きっぷりがそのままま自分に返ってくることになる。(もっとも,嶋さんが先住民/侵略者のような構図をどのように考えているかは明示されていないので,切り口によっていかようにも言えそうだが。)ただ,今回の論調に関していえば嶋さんが,短歌を書き・読む人たち/企業というふうに把握していると捉えるのが自然なのかな,と前提して書いた。
これがミームの企業利用という論点になるとたちまち上記の前提は崩れる。嶋さんは「外から来た企業が、安易にミームに乗っかろうとするのは精神が貧しいと思う。」というが,インターネット,とりわけSNSという場でのミーム利用について,「外から来た企業」も何もないだろう。そこには先住民/侵略者という構図は成立しない。
嶋さんのこの時評の後半はこの短歌自体の味わいについて述べたものである。今回のフリーライド批判とは本質的には関係ないと僕は思うのでいったん措く。
企業が「短歌の引用は行っていない」としている以上,ここでその一首全体ついてに触れるのはあまり意味がないと思うから。
時評の最後で嶋さんは,この歌の味わいから導かれる帰結として「上の句は企業が望むような消費を促すテクストではない。開放感のある下の句だけが広告に利用されていると思うと、今回の件は一層グロテスクであった。」と締めくくる。
先述したマクドナルドの回答によると短歌は引用していないということであるから,”上の句は宣伝に使えない。キャッチーな下の句だけを使おう”との判断があったであろうとする嶋さんの意見は妄想の域を出ないだろう。
今いちど僕自身の感想を申し添えれば,この歌のとりわけ下の句は秀逸であり,むしろこれだけで完成されているような気さえする。企業の担当者がこの短歌作品を知っていたかどうかはこの際いったん措くが,この歌からの優れた述べ方をもとに発生したミームにライドしたことは慧眼であるとすら思う。時評内での嶋さんによる鑑賞についても思うところはあるが本稿の主旨と若干ずれるのでここに書くことはしない。
今回の嶋さんの時評は「短歌の引用」と「ミームの利用」を混同しているように見える。重ねて「文化」と「経済」をも混同している。
「ミームの利用」に関して言えば,今回の企業のミーム利用は何ら問題ない。経済的な損失を論点にしていたならばこの話はいくらか論じようもあるが,嶋さん自身が「文化の収奪」を論点にしている以上この批判は無効だろう。
一方「短歌の引用」ということについていえばこれは当然に作者名などを併記して使用することが法的な意味でも求められるだろう。ただしこの点についても企業が「短歌の引用は行っていない」としている以上嶋さんの批判は無効ということになる。
どこかで「ミームの利用」と「短歌の引用」を混同,あるいは意図的にすり替えて論じているような印象を受けるのだ。
残念ながら,むしろ今回の嶋さんのこの時評こそが文化の良き面を収奪しているのであった。
参考
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