#228 価値マジわかんなくなってきた
最近、価値というものがほんとうにわからなくなってきました。モノの価値とか、人の価値とか、プライスレスだとか。そういう言葉が全部、わからない。
役にたつこと全般を現すざっくりとした理解での「使用価値」という言葉だけは、なんとか納得感をもって受け入れられるような気がします。そりゃあ、水や食べものなんかの重要性のことが「価値」だよという話なら、さすがに迷わない。
よくわからないのは、それらが「商品」になった時の価値ですが、寝て起きてまた寝るか、あるいはコーヒーを飲んで読書をするか。そのあと食事をして、そのうち夕方になり、もうこんな時間かと思って睡眠薬を飲んで横になる。
こんな暮らしをしていると、レジャーとしてのショッピングからはどんどん遠ざかっていくので、交換価値を持つという「商品」の存在が不思議に思えてきます。ちなみに、ここで不思議がっているのは、大量生産された「商品らしい商品」のことですね。昨日、文学フリマに行って以来の大混乱なのですよ。
同人誌は、それを求める人にとっては、ものすごい価値がある。制作から販売までほぼ作者本人が行い、限られた予算の中で在庫を抱える恐怖とともに、「同好の士」に売れる部数を見極めて印刷する。(素人ながら、想像するだけで胃がキリキリする…すごいことだ…)そのため、希少にならざるを得ない。もちろん、現実的には手の届く値段でなければ買えないが、手にした者にとって、その価値はほとんどプライスレスに近い。今風の言い方をするなら、尊い。労働価値説的な考え?なのでしょうか。
一方、(個人の)Kindle出版では、そうした希少性は減少する。そのため、内容に価値があることをアピールしやすいビジネス系・ノウハウ系の本が多い。(その違いは、表紙を見ればよくわかる。Kindle本の表紙はより商業出版に近い。クリックしてもらうための競争でしょう)そして、それらのうちの多くはやはり、本質的に希少であってはならない内容のものだと思います。財産を築く方法とか、健康になる方法とか、生活の質を向上させる方法とか。有用であるならば、広く知らしめるべき性質の情報だからです。
そのため、読み放題サービスのKindle Unlimitedで、読まれたページ数に基づいて収益が発生するという、Amazonの仕組みもまた、実情に合っていて納得できるところです。つまるところ、このサービスの仕組み自体が「交換価値が高まってはならないもの」を出版するようにできているのだと思います。
しかしそうなると、更に規模の大きい商業出版には、いったいどんな価値のなさというか「希少であってはいけない理由」があるのか、ということにも悩みます。どこにでも売っていて、紙でも電子でも出版されていて、翻訳されて世界中で読まれたり、映像化されたりもする。しかし、そうなればなるほど、希少なものではなくなっていく。一方で、そこに費やされる労働量は、同人作品よりはるかに大きいものでしょう。希少ではないけれど、注ぎ込まれた労働量を鑑みると、やはり価値が高い。
商業出版というのは、「内容がとても優れていて、万人に向けて面白いと感じられる、あるいは残していくべき芸術性のある内容だから」出版されたのであり、ならば当然、世界中に広まるべきだろうという話なのですが、そこまでの存在であるのなら、(市場で相応の評価を得たのなら)それはもはや、人類の共有財産なのではないでしょうか?
と、考えてしまうのがわたしの癖。こうして、ヘンテコな道徳論を持ち込んでしまうから混乱するのでしょう。しかしまあ、わたしの妄想が非現実的なものだとしても、それなりの正しさも持ち合わせているような気がしています。
だからひょっとしたら、すごい作品であればあるほど、著作権の保護期間は短い方がいいのかもしれない。死後70年というのは、長すぎるのではないだろうか?なんて考えたりもします。
ほら!価値、わからなくなってきませんか?経済に詳しい方なら、そんなに悩まないのかもしれませんが、わたしはめちゃくちゃ悩んでいますよ。書籍を例に話しましたが、例えばこれが医薬品ならどうですか?もし、不治の病を治せる薬が開発されたら、それで製薬会社が大儲けするというのが現実ですけど、人類のためには「いきなりジェネリック」の方が良いんですよ。
大儲けのチャンスが薬を開発する動機づけになるわけだから、それはむしろ新薬開発が後退するよ、という意見もあろうかと思いますけどね。でも、製薬会社ではなくて、実際に薬を開発している科学者はどう思っているでしょうね?自分や会社が大儲けするか、不治の病とされた病気が世界中からあっという間に消えていくか。
もう!ほら!やっぱりわからん。価値がわからないから、働く気にもなれないし頑張ってうつ病治すぞレッツゴーという気分にならないんですよ。
ただ、写真家になりたかった昔の自分が撮った写真を改めて見てみると「(わたし個人限定の)ものすごい使用価値」があるんですよね。それ使用価値じゃなくない?と思われるかもしれないけど、なんか、生きていけるもの。わたしにはまだ、いくばくかのクリエイティビティがあるんだなって思えるから。
結局、平凡な若さとスキルを資本にして、その価値を会社と交換して生きて行こうと思ったら死にかけた身なので、やっぱり文学フリマがキラッキラに眩しく見えたのは、イベントに参加したテンションのせいじゃなかったんだな。
これまでの人生で、なんの考えもなく受け入れていた「価値」についてのヒントがある。わたしが気づいていなかった価値の側面が、とっくに見えている人たちがいる。たぶんそういうものに、呼ばれて行ったのだろうな、と思いました。