日本人の故郷は雲南の滇王国(テン)だった❣️ 漢委奴国王の金印とテン王国の金印🐾
北タイ探検記第2幕🐾
雲南省滇王国から日本福岡に到達した日本人の始祖たちー西暦57年のお話
発見に次ぐ発見❗️
この金印はこれまでの日本人には見抜けなかった秘密が隠されていました。日本人はこの地をテンと必ずふり仮名を付けずにはいられません。これが日本人の盲点でした。
世界初です。世界史に名を残したAD57の日本人王の正体が、、わかった
悶絶の北タイ探検記2nd
漢委奴国王の3兄弟の金印が証明
王国の跡には大和城 青島で発見
日本の福岡市で発見された権力の象徴「漢委奴国王」の印。95%の純金である。
こんな印は朝鮮半島には存在しない。
各式(位階)が下位の銅製の印は見つかっている。
わたしはテン王国の所在を調べ、そこがハニ族の王国であると悟ったとき、この日本人の真実の故郷を探るフィールドワークの旅は3つ目の証明ルートとなった
高揚した気分で勇躍、バンコクから昆明へ飛んだのだった😂
倭国とテン王国とは共に騎馬民族。画上はテン王国金印、画下は倭国金印。倭国金印は「蛇の目」に対しテン王金印は「蛇皮」。
王国の在り方
テン王金印の出土した場所を雲南省地図に。
シルクロードの要衝に位置し、遊牧民と混血してたようです。インド洋の子安貝が大量に発見された。富の象徴。ここの王はインドへの道を探索する使節を派遣しようとしていました。西南シルクロード❗️
ことの起こり
日本北九州
筑前国那珂郡志賀島で百姓の甚兵衛、修治が発見、二人に黒田藩から褒賞白銀十枚をもらった。
金印「漢委奴國王」亀紐と蛇紐の形状から真贋論争に発展した。しかし、1955年、雲南省の漢代古墳から滇王之印が発掘され同じ蛇紐で外国王への授印と証明され、本物と断定されたのだ。
日本人の意見1
稲作が朝鮮半島から伝わったと言うのは戯言。南方系の作物である米が大陸北方から寒さ厳しい朝鮮半島を経て伝わるわけがない。普通に考えて雲南あたりから海洋ルートでの伝播だろう。むしろ、九州から朝鮮半島に稲作が伝わったとみた方が妥当。倭国金印の時代、朝鮮半島には属領村扱いの銅印のみ。
委奴国(倭)は蛇の紐通しを持つ金印を受けた。雲南省の滇(テン)王国も「滇王之印」という蛇の紐通しを持つ金印を受けた。この滇王国は中国歴代南朝に呑み込まれた。
7世紀に南詔が建国。
その南詔の都の名は大和城だった。
滇=蛇金印→大和城、
倭=蛇金印→大和
私の調査
金印のつまみには動物の形が用いられる。皇帝は龍で、臣下は亀のつまみ。
周辺民族は、
北方・西方にはラクダ、馬、羊、
南方は蛇、東方は亀?
注)後に中国文献で証拠が固まる。格式だった
確かに雲南の滇王之印は蛇。しかし東方の「漢委奴国王」のつまみは、とぐろを巻いて上を見てる蛇の形だ。
何故、蛇なのだろう?
正確に金印を計測し、一辺の長さ2.347cmが後漢初期の一寸にあたることをつきとめ、中国雲南省の石寨山古墓から「滇(てん)王之印」と彫った蛇形のつまみのある金印が出土するに及び、偽作説は退けられた。
また、蛇の鈕をもつ金印としては中国雲南省の石寨山(せきさいざん)の6号墓で出土した「滇(てん)王之印」が知られる。
注)蛇ではなく鞍を付けた象にも見える
この街はアジア象の故郷
あのおお騒がせした今夏2021年8月
西双版納の自然象園からなぜか北上し昆明まで旅した13頭の象の群れ。北回帰線を太陽が周ると帰宅の途へ。
だが、
この2つは紛れもない兄弟印 寸法、鋳造、文面から証拠が固まる
金印は、中国皇帝が諸侯に与えたもので、周辺異民族の王には銅印が多かった。
「漢匈奴悪適尸逐王」の銅印。
例外が、AD57年の「漢委奴国王」と、BC109年・雲南の「滇王之印」の金印。
・「滇王之印」も金印も蛇のモチーフが共通している
・現在、西双版納に暮らしている人々はかつて滇池に居住したとされる
・滇池の倭族は日本の倭と同源だった説
・いずれも照葉樹林文化で、西双版納のタイ族も赤米、なれずし、納豆など漢民族地域にはない日本と共通する食品が多い
西双版納で徳島のすだちを入れた冷麺?を食べたら、それだった😂
しかし、イナゴの唐揚げ、焙煎まである。西双版納に。
イナゴ、バッタ
バンコクのナイトマーケットには必ずこの屋台がある。無理やりヌーイに口の中に突っ込まれ食べれる様になった。もっと強烈なのは親指より太いイモムシのような幼虫😭
それも西双版納が故郷だよ!
これでもか❣️
日本は会津のイナゴ食いは有名だが、これがなんと群馬や福井などでも食べられていた。
広陵思王 劉荊に与えられた「廣陵王璽」が中国で出土していた。
「魏志倭人伝」には、
卑弥呼に「親魏倭王」の金印を与えたことが記されていた
位階は朝鮮諸国より遥かに高い諸侯の王位
なぜ、雲南王と日本王には高位が贈られた?
外国の王への金印、王子や諸侯へは銀印など詳細な取り決めが中国朝廷にあった。
中国に貢がれた
生口奴隷男女計160人の謎
考古学ファンの人たちの意見
漢民族の南下により追われた長江周辺の滇王国の人々が日本海を渡り山陰に漂着したと考えられる遺物も残っている
因みに長江を遡り奥地山中に逃れた滇王国の末裔が雲南省の少数民族“苗族”でしょう?
この説を唱えた人は鋭い思う。
長江沿いというのもその通り。それ以外のルートは無理なのだ❗️
わたしはハニ族を調査した後にまだ、ほかの種族も一緒に日本に渡航した事を疑っていた。それを
モン族(中国表記名は苗族)だと見抜いていたからだ。
この人はさらに「この滇王国は嘗て氷結したベーリング海峡を中国大陸側へと移動してきたインディアンの子孫だ」と言うが?
氷結した時期が重ならない。
夫餘に「濊王之印」が伝わっているのは、昔穢貊の地だったからと。高句麗も含め、このあたりは夫餘系が多い。
有名な「滇王之印」も金印でした
印文が同じ形式です
鮮卑が授けられた金印はラクダ型
匈奴の銅印もラクダ型、
が、広陵王の金印は亀型
漢の王印は後に虎と判明。
注)鮮卑の国の位置は確認できた。北にある
滇王と委奴国王が蛇型という。テン王国の出土印は大蛇です🦣
西双版納の南には8メートルの大蛇が生息していました。
民族を象徴するモチーフのようだ。
だとすると、倭の王は皇帝により近かったことになる
漢の従属国に与えた印は四文字で「滇王之印」、「廣陵王璽」の刻印だが、朝貢国の奴国は五文字で「漢委奴国王」と区別している。
夷狄民族の匈奴、烏桓、鮮卑等に与えた金、銀,銅印にはどの様な文字が彫られたのか知りたいものだ。
※これは解明しました
日本古代の歴史に登場する2つの金印
「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)印」と「親魏倭王(しんぎわおう)印」。
この二つの金印については、混同されることも多いようです。
また「漢委奴国王印」は知っていても「親魏倭王印」のことは知らないという人も多いかもしれません。
【金印の在りか】
漢委奴国王印は、福岡市立博物館に展示保存されています。
江戸時代に福岡の百姓が志賀島(しかのしま)で農作業中に発見した金印です。
福岡藩主である黒田家に代々伝わり、のち福岡市に寄贈されました。
親魏倭王印は実在したと考えられていますが、現物は未だ確認されていません。
【2つの印の背景と意味】
漢委奴国王印は、西暦57年に中国の「後漢」王朝から「倭」とよばれた日本に存在した「奴国」の「王」に贈られたものです。
中国の史書『後漢書』に光武帝(こうぶてい)が倭奴国王に印綬を与えたことが記載されています。
「委」の文字は「倭」の略字?
そうでない場合は、文面が巧緻です。
漢が委任した「奴国」の「王」に贈られた❗️
ただし、この史書の成立は5世紀頃とされており、実際に贈られた時期よりも、ずっと後になって記録された。
あるはずの親魏倭王印は発見されないまま1800年経過
親魏倭王印は、西暦238年もしくは239年に「魏」と呼ばれた中国の王朝の烈祖明帝(れつそめいてい)もしくは斉王が「倭の王」つまり日本の王に贈ったという記録が『三国志』の中の「東夷伝倭人条」部分、いわゆる『魏志倭人伝』に残っています。
ここで言われる倭王とは、魏の都へ貢ぎ物を送った邪馬台国の卑弥呼のこと。
印綬は邪馬台国に対して授けられました。
西晋時代の陳寿(ちんじゅ)が280年から297年に著したこの記録は、「漢委奴国王印」の『後漢書』よりも先に書かれたことになります。
【2つの金印と史料からわかること】
印綬の文言によって当時の日本の様子が窺えます。
「漢委奴国王印」からは、漢王朝から印を受け取った日本側は倭国と呼ばれたこと。
そして倭国にある幾つかの国の中に「奴国」があり、そこに「王」が君臨していたことがわかります。
つまり、受け取った「王」は、倭国の代表ではなく「倭国の中の一つの国である奴国」の代表だったわけです。
ただし、国名として「委奴」を「いと」と読み、委奴国(いとこく)だったという説もあります。
注)意味のない解釈です。イ音なら他にいくつも漢字が存在し退けれます
金印自体は、縦横高さが約2.3cmx2.3cm x 2.2cmで、つまみ部分の形が蛇になっており、当初は紫色の紐がつけられていました。正確な寸法は後述
調査の結果、印綬は確かに中国産の金で作られていることが判明❗️
一方、「親魏倭王印」は「倭王」つまり「日本の王」に贈られた印綬です。
邪馬台国の卑弥呼は、日本を代表した王として認識されていました。
奴国があった時代から日本国内におけるいくつかの国の統合が進み、邪馬台国が中心的な存在になっていたようです。
さて、印綬は卑弥呼個人に対するものではなく、国に授かった公的な物ですから、卑弥呼の次の女王となった娘の壱与(いよ)もしくは台与(とよ)が引き継いだ可能性があります。
また、諸外国は中国の王朝交代時には、受け取った印を返上して新王朝への忠誠を誓い、新たな王朝からの印綬を授かることが通例となっていました。
265年西晋に回収され、新たに別の印を授与された可能性もあります。
ただし、印綬はもちろんそれを示す史料は発見されていません。
この二つの金印の存在や記録は、日本国内における王朝の所在、邪馬台国がどこにあったのかという論争にも関わるものですが、未だにこれらの論争に終止符を打てる答えは見つかっていない
重要な文
漢の印章制度は、国を治める政治体制の根幹であり、同時に重要な外交政策でもありました。そのため皇帝は虎鈕(こちゅう)の玉璽(ぎょくじ)、皇太子や列侯・丞相・将軍などは亀鈕(きちゅう)の金印、中級官吏は亀鈕銀印で下級官吏は鼻鈕(びちゅう)銅印とされ、綬(じゅ)(紐(ひも))の色も皇帝の朱綬(しゅじゅ)から黄綬まで細かく決められていました。
一方、周辺の異民族の支配者たちにも内臣と同じように官爵位(かんしゃくい)と印綬を与えて皇帝を頂点とする政治体制の中に組み入れ、その脅威を取り除こうとした。
そのため強大な匈奴(きょうど)族の王には、客臣として皇帝と同じ「匈奴単于璽(きょうどぜんうじ)」を、西域の烏孫(うそん)族などには列侯に準じて金印紫綬(しじゅ)を与え、その臣下たちにも内臣に準じた銀印や銅印を下賜することもありました。
また、異民族に与えた印章の鈕には、内臣の印にはみられないその民族を象徴するラクダやヒツジ・ヘビなどを象っています。
「漢委奴國王」の金印に象られたヘビの鈕は、湿潤な稲作地帯に生息するヘビを象徴したものとも云われています。
詳述
中国雲南で発見した文献
中国国内の歴史博物館
ワニの印
羊の印
亀の印
不明動物の印
が存在していた。
テン王国は西南シルクロードの要衝だった。アラビア世界、トルキスタンのものが届いていた😂
光武帝の時代背景から
もっと多くの国へ下賜した印が存在するのではという疑念が浮かんだ!
亀
蛙?
ラクダ
象
鳥、魚もあるはず
福岡市の研究
「漢委奴國王」の時代
天明4(1784)年の春、博多湾に浮かぶ志賀島から「漢委奴國王」の金印が発見されました。これが『後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)』に「倭奴国奉朝貢賀・・・光武賜以印綬」と記されている金印で、倭の奴国王が後漢の光武帝からもらった日本最古の印章です。はるか東海の小さな国の首長に金印を与え、王の称号を許したことは異例なことで、漢王朝再興後の東アジアの国際情勢を窺うことができます。この蛇鈕の金印は他に出土例がなく真贋(しんがん)論争が長く続きました。しかし、1956年に中国雲南省の漢墓から前漢の武帝が紀元前109年にテン族の王に与えた蛇鈕の金印「テン王之印(おうのいん)」が発見されて真物説が確定的になりました。また印文も三宅米吉博士が提唱された「かんのわのなのこくおう」との読み方が定説となっています。
この金印のほかに邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)が、魏の皇帝から「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印紫綬を、また使節の正使と次使が銀印青綬を与えられ、その子壱与(いよ)の正使と次使が銀印青綬(せいじゅ)を与えらたと記録に残されています。
日本にあるはずの5つの金銀の印
Wanted
終章
日本にあるはずの魏志倭人伝にある5つの金と銀の印は不明。これは場所を絞れば発見できます。空白の150年(大和、大いに乱れる)の間に日本の首都は北九州→出雲へ
そして、北九州へ(金印が発見された)
それが、瀬戸内海を航海して近畿へ辿り着けたのか?
西双版納ー北タイ探検記Ⅲ
2000年の時空を越えて蘇った日本王の正体
男の驚愕の冒険 神話の意味がすべて整然と理解出来た❗️
北タイ探検記Ⅳm
テン王国の王の野望❗️
西南シルクロードに4使節 派遣
わたしはこれを探していた
モン族の日本到達
連続して発表します。考古学ファンの方はbook
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北タイ探検記1
現在のわたしの生活 時空が歪んだバンコク界隈世界