読書の感想 「死んでも死にきれない」幽霊の物語
箪笥の中で息をひそめる子ども、親の生死を分ける会話と音楽、大変映画的で好かったです。
ラストは音楽によって幽霊が現れて、ベートーベンのイ長調交響曲、ベルクのバイオリン協奏曲、ロザムンデ四重奏の第一楽章、バッハのホ長調無伴奏組曲ガボット----「めぐり逢う朝」の様相でしたが、そこには魂を修復する職人、こうした言い方はちょっとメグレみたいじゃないかしら、を絡ませて。その点「めぐり逢う朝」は蝉丸伝説的雰囲気でした。
ヴィヨーム、トゥルト、ミルクール----フランス人の音楽好きでも周知とはいえないように思います。わたしもミルクールはすぐ検索しました。
あとがきにある通り、エッセイの延長線上の物語。事実だけでは描ききれないモノを想像を広げて補完していく、うまくするとその先が想像でなく創造に近づいていきます。
わたしが好きな須賀敦子は、描く内容(記憶の蓄積)がたっぷりあり、補完した想像(創造)は「語りすぎない」こと、と自分に「都合が悪いこと」だったと、勝手に思っています。
「壊れた魂」の著者は、若いバイオリニストの家族の側に近く、わたしには感じられました。フランス語で創作してフランスで出版する、ことは西洋のクラシック音楽を日本で生まれ育った人が習得するのに似ていないか、と。
もしやと検索したら夫人はフランスの方らしい。いまは便利な時代で、フランス語を勉強しているらしい30前の方のブログで、水林氏の2011年の著作「Une langue venue d'ailleurs」のことが少し知れます。適当に翻訳すると「他の場所の言語」かしら。フランス語の著作は、日本語では知られていません。そうか、それが当然か。
水林氏が日本語で表現し、日本で知られている活動と人柄、同様にフランス語で、しかし表現の形式や内容が異なっているため、ひとりの人物としての全体像がわたしなどにはわかりません。
彼に自分の録音したCDにエッセイを依頼したというビオンディが、プロモーションのため以外のきっかけや話題があるなら、水林氏をどうして知っていたのか興味がわきます。