いつも日本語で悩んでいます
こうやって書くと、自分がいつも悩んでいるみたいに見えるが、そうではなくて本のタイトルである。朝日新聞校閲センターが出している一冊で、朝日新聞朝刊にある「言葉の広場―校閲センターから」の記事をまとめたものだ。大見出しで5章、100項目弱の話題から構成されている。
もちろんすべてを読むこともできるし、見開きの2ページで完結するので、気になったものだけをヒックアップして読むこともできる。印象的だった項目を書いていくことにする。
ら抜き言葉の前兆があった
最近になって出てきたと思われた言葉の変化が、実は長い時間を掛けて脈々と形成されてきたものだったようだ。文化庁による調査では、上記のら抜き言葉を使う人の割合が、使わない人の割合を始めて上回ったという。自分も違和感があるなと思いつつも、つい使ってしまうときがあるから、たしかにいつしかみんなが受け入れてしまう時代が来るのかなと思う。
個人言語
「了解しました」は目上に使うべきではない、といった指摘があるそうだ。おそらく「承知しました」になるのだと思うが、使っているケースも見受けられる。慣用句などは明確な誤りを指摘できるが、判断が難しいのは、言葉の持つニュアンスや用法にまで立ち入って正誤をいう場合だそうだ。そして
、そのような指摘は古来からあるという。
「とても」の後が必ず否定形を伴う事実はそういえばそうだったかも……と思った。古典の単語にあったような気がしたが、忘れていたくらいだからあまり気にしていなかったのだろう。いつの時代も「言葉は乱れている」と思うことは常々であり、その正誤基準になるものを「個人言語」と、言語学の世界では言うようだ。
「与える」は上から目線なのか?
「希望を与えられるように」という言い方が上から見下しているようだという疑問が寄せられるという。辞書的な意味では、「上の者が下の者へ授ける場合にいう」や「相手に、ある気持ち・感じなどを持たせる」といった用法があって、必ずしも上から目線なだけではないようだ。
井山名人の言葉の選び方は、自分側ではなく、相手側に立った表現をした。だからそれを読んだ人が "心にしみわたる" と感じたのだろう。とっさにこうした表現ができるのは普段からそうした考え方をしているからに他ならない。立場を変えたときにどんな表現ができるかな、と考えることは普段からできそうな習慣だなと思わされた。
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