共感(的)コミュニケーションの自己共感①
共感(的)コミュニケーションとも呼ばれる、正式名称「非暴力コミュニケーション」「Nonviolent Communication」「NVC」を学んでいる私からみた自己共感について書いてみます。
①としたのは、1回で書き切れる内容ではないのでまた書きたくなった時のためで、特に続きがすでに予定されているわけではありません(準備がいいんだか…?😁)。
ちなみに、今回は「どんな時でも自己共感は他者共感より先にするのか?」について、私の見解を自由に書いています。
*時々、問いを書いていますが、その続きは答えを書いているわけでは
なく、私の探求・究の途中を書いています。そのため、もしよかったら、
これを読むみなさんも探求・究してみてください。そして、「私はこう
思う・こんな体験があるよ」などがあったら、教えてもらえるとコミュニ
ティ、仲間、学び、探求・究、サポートのニーズが満たされて私が喜び
ます(書いている今はそんな気分。連絡をもらう時もそうでしょう。
知らんけど←便利な言葉だ😄)。
*初心者が読んだら、意味がわからない書き方かも…。(不親切、という私の評価)修正案などがあったら、それも教えてもらえると嬉しいです。
NVCの3つのモード
NVCはコミュニケーションの手法でもあり、その手法の中に3つのモードがあります。
それは、自己共感、正直な自己表現、他者共感、です。
自己共感
自己共感とは、文字にするとしたらいろんな書き方ができます。自分の体感から書くこともできるし、定義を書くこともできる。哲学的なことや科学的なことを書く人もいるかもしれません(私はできないけどw)。
私にとっての自己共感は、
・自分のニーズにつながること。
・頭と心と体が一致していること(自分が自分と誠実であること)。
・腑に落ちていること。
・今ここに意識があり、意図が明確であり(目的と意識がつながってお
り)、結果にオープンで自分や状況、相手に好奇心がある状態。
まだ書き足したい感じもありますが、本題はこの先なので、このくらいにしておきます。
3つのモードのどれが先?
自己共感、正直な自己表現、他者共感(他者に共感する・他者の共感をサポートする)のどれが先?と聞かれたら、NVCerだったら咄嗟に「自己共感に決まってる」というのではないでしょうか?
私も、基本的にはそれが望ましいと思っているし、そうであるために練習・実践・鍛錬しています。
そうであるけれども…ということを踏まえて、この記事ではそうじゃない可能性を書いてみたいと思います。
自己共感が先で他者共感は後? ①
目の前で子供が悲しそうにしていて「どうしたの?話してみたい?」と聞く前にしっかり自己共感して万全になってから話を聴くかというと、そんなに「100%自己共感バッチリだぜ!」という状態はそうそう起こらないので、もちろん話が聴ける程度には自己共感してる必要はありますが、明確に自分にどんなニーズがあるかを確認しつつ聴き始めたり聴き続けたりする、というよりは「今は話を聴くことを選択する」くらいの自己共感で、実際にあるニーズを味わい尽くしているわけではなさそうな気がします。
よく飛行機で「子供の酸素マスクの前に大人の酸素マスクを」といっています。基本的には私もそれに賛成です。でも、そう言われたからといって鵜呑みにする必要はありません。明らかに自分は後1分くらいは大丈夫で、目の前にぐったりしかけている子供がいたら、自己責任で子供の酸素マスクを先にしてもいいんじゃないか?そんなふうに考えています。
自己共感が先で他者共感は後? ②
じゃあ、時間がゆったりとれる時はどうでしょう?
自己共感を落ち着くまで十分にして、「100%自己共感バッチリだぜ!」という状態で家族と話し始めたとします。1分もしないうちに、自分がイライラしたり、あーもう!とフラストレーションが溜まってきたり、悲しくなったりすることもあります。時間をかけても一瞬でまた別の(同じニーズのこともあるかもだけど)ニーズが「大切なの!」と出現し、「100%自己共感バッチリだぜ!」をキープすることは難しいかもしれません。
そんな時にも、「私は動揺している、そして同時に目の前の相手とつながりたいんだ。どうも相手の方が私よりも話を聴いてもらう必要があるようだから、、チクチクいたい自分の気持ちに気づきつつ、相手の感情とニーズを聴こうとすること、そして感情とニーズを推測しようとすることを選択する」くらいの自己共感でその場にいるかもしれません。
それを考えると、自己共感を準備段階で先にしていても、対話に入ったら先とか後とかいうことじゃなくなっていく、というのが私の体感です。
自己共感が先で他者共感は後? ③
③はこれまでと違う趣向です。
そもそも、NVCを知らない人、学び・実践し始めたばかりの人で、自己共感がよくわからない人、自分のニーズとつながったことが少ない人が(自分の体験なしに)、a. 他者に共感できるのか?そして b. 他者の共感のサポートができるのか?について考えてみます。
aに関しては、そもそも共感を体験していないので、自分の中で相手が感じているであろうことを「それが大事なんだね」と響かせるのは難しいかな、と感じています。
bに関しては、時と場合と相手による、と考えています。
共感バディといって、(多くの場合は2人組で)お互いの話を共感的に聴き合う練習・実践があるのですが、その時に、NVC初心者同士で聴き合っている時には、どうかな?と考えると、私自身がNVCを知り始めた頃は、感情リストやニーズリストを見て、頭で「この場合はこう感じているのかな? これが大事って感じかな?」と「リスト上から探している」感じでした。
おままごと、みたいな、なんとなく見よう見まねでやっていました。
(私は、です)
そもそも自己共感をしたことがない人(ニーズを深く味わいきって腑に落ちたことがない人)が他の人の感情やニーズに共鳴できるのでしょうか?他の人の感情とニーズの推測をして共感のサポートができるのでしょうか?他者共感ができる状態だと言えるのでしょうか?
これに関しては、私はどのくらいの深さで?という思いはありつつ、常に「初めて」はあるので、うまくいくかどうかは別にしてやらないよりやった方がマシ、くらいな気持ちでいいから、つまり他者共感の前に自己共感、と固いことを言わずに😄、「サポートしたい」「なんだかわからないけれど私が惹かれているNVCの実践をしたい」という気持ちで感情とニーズを愚直に推測してみたい、と思うのです。
相手に思わぬ言葉が響くこともあるし、全く響く言葉が繰り出せないこともあるかもしれない。けれど、「それじゃない」ことがわかれば、その人の脳や身体はそれが大切なことであればあるほど「じゃあなんだろう?」と探求を始めると信じています。
だから、どんなに外れても愚直でもへたっぴぃでもその場にいるだけでもいいのではないか、と思っています。
これを書きながら、心の中で念仏のように唱えるのは、部屋にも書いて貼ってあるマーシャルの言葉です。
もちろんやるだけの価値があることをやりたいし、素晴らしくやりたい、素晴らしい聴き手でありたいし存在でありたい、とも願っているけれど、完璧に、上手になるまで待っていたらその時はおとづれないし、何しろ練習や実践なしにはどの領域にも辿り着かない、何も起こらない。だから、へたっぴいでも、完璧でなくても、順番が、とかを考えず、自分が「相手の話を聴く・共にいる」ことを選択できるようであれば(自分に対して非暴力であれば)、自己共感の前に他者共感をしてみたらいいのでは、と思っています。
とはいえ、他者共感の前に自己共感
「え、最後に覆すの?!」という感じですよね😄
覆すつもりはなくて、でも、大切なのは、自分が自分に共感的である、ということ、を書いて〆たいのです。
上でも「自分に対して非暴力であれば」と書いたのは、つまりは「自分に共感していたら」ということです。自己共感度ゼロでは、燃え尽きてしまうし、自分に共感的でないのに他人に共感するって、深い層の共感が起こらないような気がします。どうしても相手のためにそうしたい、と思うときも、そうであればあるほど、その場にいる自分が響きやすい状態でいるために自己共感度が高い方がその場が深まりそうな気がしています。
その時に心に留めたいのは、100%を目指さない。何事も完璧を目指すと、つらくなりませんか? できてない、とか、まだまだだ、と思ってしまうし、100%が目的になってしまいます。目的はつながりの質、なのです。自分とまず優しく思いやりを持ってつながりたい、つながろうとする、そこから始めたいのです。
だから…Practice, Practice, Practice
思いやりで与え受け取るための柔軟性、好奇心、透明度を上げるためにも自己共感を瞬間瞬間にし続ける、自分につながり続けるためにも実践、実践、また実践だなぁ、と書きながら思っています。
参考文献: NVC 人と人の関係に命を吹き込む法
(参考文献、と書きつつ、上に書いたことは私の見解で、
NVCの王道ではない、ということを再度書いておきます)