「アフリカアジアの宗教性に関するターミノロジー」比較がとても面白い(後半)(第1回、第2回勉強会まとめ)
前回の記事↓でお話しをはじめた、アフリカ、アジアの宗教性比較の続きです。
近代国家と西洋的「Religoin」概念に対する「アガマ」(インドネシア)、「ダルマ」(インド、ネパール)「宗教」(日本)…
現地の宗教概念や宗教という語の定義を捉える上でもう一つ、非常に重要なのが、近代西洋との接触と、近代国家として社会が成り立っていく経緯、その中で政治的、社会的に定義されてきた西洋の「Religion」(英語や仏語)と比較・対比、あるいは同義化されるための宗教概念です。
そもそもReligionという単語はラテン語の「re-」=「再び」あるいは「繰り返し戻る」という意味、ReligioやReligioが勤行や拘束といった意味合いを持っていたということが知られています。近代化のなかで、特にフランスではReligionはカトリック教会を代表する組織だった「宗教組織」=Eglise (Church)の意味合いが付随されるようになりました。(仏語圏、英語圏の近代以降の宗教や宗教性定義については、またのちに詳しく取り扱う予定です)
アジア、アフリカではどうでしょう。
例えば、インドネシアで一般的に「宗教」として理解されているもう一つの単語、「Agama」もまた、国家との関わりのなかで規定されてくる「宗教」であると言います(野中)。インドネシアでは、国家において公認宗教(Agama)が定義されており、きちんと組織だった団体になっているものを「Agama」というそうです(イスラーム、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー、仏教、儒教)。IDカードの「宗教欄」にはどの「Agama」に属するかを明示しなくてはならず、「Agama」を持たないものが「共産党」の残党というレッテルがあるというのは印象的でした。
これに対して、ヒンドゥー文化圏であるインドやネパールにおける「ダルマ」も、「Religion」という概念が、近代に入って外からもたらされ、対置されるものとしてよく使われるようになった言葉ですが、実際の意味は「Religion」とかなり異なることが山下先生(インド)、丹羽先生(ネパール)の発表で報告されました。そもそもは、「あるべきことわり」、「従わねばならない規則(rules)が存在するという事実のこと」などと理解され、「ダルマする(善いことを行う)」や「ダルマを稼ぐ(功徳を積む)」という表現が聞かれるそうです(丹羽)。
山下先生によると、実践レベルではもともと地域的、地方的な雑多な要素、様々な特徴をもつ多種多様な要素からなっているヒンドゥー教を、近代的な宗教という考えに合わせて政治的に一つの宗教としてまとめていく過程で、「ダルマ」とうい言葉が付随されることになり、「理想的な」「模範的な」体系を持つものとして再概念化されたということです。
先のイスラームと対峙した概念にもあるように、こうした「近代的な宗教概念の統一化」が近代国家との関わりの中で果たされていくなかで、それに取りこぼされた信仰や慣習を表す言葉も出てきます。インドの場合は、これが「Bhakti(バクティ)」であり、おそらく先にでたインドネシアの「Keperchayaan」とも似た概念で、広く信仰、信仰実践などを表していると言います。一神教的絶対神へのバクティもありますが、親や国家など(独立運動を契機に)神以外の者に対する「信ずる」「捧げる」意味で広く使われているようです。
面白いのが、インドネシアの「Keperchayaan」の場合は、2017年に国家が認める「体系だった宗教」としての「Agama」入りを果たし(!)、IDにも記載できるようになったとのこと。日本語訳的には「所属宗教=イスラーム」「カトリック」等とならんで「伝統宗教」と記載できるようになった感覚でしょうか。
私(阿毛)などイスラーム文化圏に長くいた研究者からみてインドの事例で非常に面白く感じるのが「神への信仰を棚上げした極限論と有神論的儀礼」が共存している、というところです。もちろん「ある種の宗教体系のなかで信仰することそのもの」(信者であること)と、神を信仰する(それが宇宙の創造主である一神教的神か、アニミズム的な神かは別として)ことは、必ずしも同義ではないですが、信心深いといえば神に対する信心、と認識しがちな一神教圏(とそれを研究対象にする)者にとって、信心深い印象のあるネパールの人々が「自分はヒンドゥー教徒だが神など別に信じていない」と言い放つことがままあるらしい(丹羽)ということは、小さな驚きでした。山下先生は、ヒンドゥー文化圏の宗教性について、哲学・思想面では無神論、不二一元論的なものに窮極する局面がある一方で、宗教・実践面ではバクティを尽くして絶対神をあがめるという有神論的理念にも窮極し、両者は矛盾しないとおっしゃっていました(山下)。(まだまだ理解が完全に追いつきませんが・・・勉強いたします)。
私個人は「宇宙の真理」を「神の真理」と呼ぶか否かは、文化圏や宗教性によって異なりながら、同じことを指しているのでは、と考えていますが、この話は、非常に楽しそうなのでまたおいおいに。
山下先生は、インドの神を表す語の豊かさについても触れておられ、ヒンドゥー文化圏の宗教性のゆたかさを理解するためにはぜひとも、今後どこかでお話しいただきたいと思ったところです。
(ちなみに私が宗教研究に入った大きな理由の一つが、高校時代にビシュヌ神にほれ込んだことでして…インドの神の絵、カラフルで素敵なのです。特にビシュヌ神のセクシーさは群を抜いています。今考えると2000年代初頭にして一種の「推し活」の先駆けだったのですよね。当時初めてバックパックで行ったインドでの経験が今も糧になっています。ヒンドゥーの神様たち、イケメンだし、エロかったりグロテスクなこともあって、大好きです。獣人も多いし。完全な余談でした)
最後になりましたが、日本の「宗教」も、そもそも外来語であるReligionから訳出された近代日本語(明治 10 年代)(長沼、2015)ということです。
島薗先生のご報告では、「宗教」は、もともと仏教由来の言語であり、ブッダに由来する根本的真理=「宗」(悉檀)と、それを言葉で説き表す「教」との複合語であると説明されました。「宗」は主体的に体得されるものでまずは唯一のものと考えられ、「教」はそれを他者に伝えるために言語化された複数のもの、「宗教」は「宗」と「教」の二つの意味で用いられるが、次第に「宗」も複数あるものとして理解されるようになり、「宗教」は客観化しうる複数の教えという意味で用いられるようになったことで、仏教を実践する者の主体的な立場からは、「宗教」の語はなじみにくい語となった(川田、1948年。中村、1992年)ということでした。
「仏教」という語も、中世では「仏法」や「仏道」の方がもっとよく用いられる語だったといいます。「教」というと言語化され対象化されたもの、また、複数あるものというニュアンスがありますが、「仏法」は真理と実践の総体を表すものであり、「仏道」は信仰者が主体的に実践して歩むべきもの。そして「道」も「法」も究極的には唯一であるはずのものと考えられていることが多かったそうです。明治維新後も教派神道教団では、自らを客観的に「○○教」ではなく、主体的に「お道」とよぶ言い方が有力だった[福嶋、1999年]といいます(島薗、報告から)。
近代化の過程で、それ以前からReligionの訳語になりえた「道学」「教道」「宗門」などではなく、複数ある「宗」の「教」をどう統治しするのかという政治的問いがあったからこそ、「宗教」という訳語が採択されていったという過程の説明は、目からうろこでした。
二種類のまったく異なる「道」としての宗教性
長くなったので、また続きを書こうとおもいますが、こうした宗教性に関する語の定義の議論のなかで浮上した「道」という概念が、アフリカ、アジアの宗教性を理解していくうえで一つのキータームになるのでは、と考えています。
「道」、といってもそれぞれの宗教性やコンテクストで全く違うものを表すということもわかってきました。
例えば上の仏教や、スピリチュアリティ研究、瞑想論の文脈における「道」、そしてイスラームのスーフィズムにおけるアラビア語の「Tariqaタリーカ」(教団を示しますが、同時に「道」を示します)は、ある程度似通った方向性を持っていて、「究極的な真理に(選ばれた)信者が到達するためのWay」、とうい意味合いが強そうです。
樫尾先生がSpirituality as a Wayという本の中でまとめられている瞑想論が非常に分かりやすいのですが(Kashio, 2021)、信者が一つ一つの段階的な局面をある種の修行によって進んでいき、瞑想法による霊性におけるな窮極の「知」の極限に到達する、というのが神秘主義の修行におけるPathであるとしたら、これは日本の小乗仏教や、道教、密教、ヨガ、西アフリカのスーフィズムを極めたコミュニティでもおそらく共通する方向性なのではないかと思います。スーフィズムではこの極限をファナー(自己の消滅)と言います、同じ状況を仏教ではおそらく無の境地、というのでしょう。
人間の身体性や霊性と文化圏によるターミノロジーの違いについては、また詳しく議論する機会があると思いますが、こうしたことを踏まえたうえで、スピリチュアリティを極める修行者にとっての「道」に関する方法論や、それが根差してきたそれぞれの文化圏の気候、風土、身体性などとの関わりは、大いに議論されるべき観点かなと考えています。これが、一つ目の「道」。
もう一つの「道」について、こちらは「道」というよりも「やりかた」といったほうがしっくりくると思いますが、浜本先生や、梅谷先生の説明された、アフリカの憑依霊やそれによる実質的、現世的な問題を解決するための「道」=Way of doing (仏語圏だとArt de vivreに近い?)といった意味合いです。極めて世俗的な、プラクティカルな方法論です。
大事なのは、「様々に困難な問題を、日常を超えたパワーソースへアクセスすることで、日常的問題を解決する」(浜本)という点。「パワーソースへアクセスする」ということにおいては、先述した霊性文化やスピリチュアリティとも全く無関係係というわけではありませんが、こちらは用途は現世的、実践的なところに向けられます。病気を治したい、家族の問題を解決したい、お金の問題をなんとかしたい、政治家や著名人として成功したい、などです。日本のお守りや神頼みにも似ています。こうした呪術信仰は、もちろん先述した「修業の道」がある一方で、同じ文化圏にも同時的に浸透しているはずです。
イスラーム圏やキリスト教におけるこうした「やりかた」である呪術実践の根源には、こうしたパワーソースは、宇宙の原理である神、あるいは唯一無二の絶対的神の知に由来する、と考えられていることが多いように思います。よくかんがえてみれば、病気の時に「このコーランの一節を唱えるとよい」や、「キリストの洗礼を受けて病気を治す」といった福音派のヒーリング実践などもまた、ことばや儀礼を通じて「日常を超えたパワーソースへアクセスすることで、解決する」ことだといえます。
浜本先生のドゥルマの事例が本当に面白かったので、こちらに取り上げます。ドゥルマの人々は憑依にまつわる「ドゥルマのやりかた」を大事にしているとのことですが、イスラーム教徒や、キリスト教徒(西洋人、白人)が、より強力なパワーソースの利用を知っているのではないか、との考えから、これを憑依に取り込む、ということをするそうです。こうした「外部のパワーソース」を取り入れるための憑依の話が脱帽ものでした。
ドゥルマの人が「白人の霊にとり憑かれる」と、リュックサックや眼鏡、懐中電灯などを身につけないと体調不良に苦しまれたり(!)、「卵をスプーンで食べる」ようになるそうです。(ドゥルマの人は、基本は有精卵なのでヒナをかえして、卵を食べるということはしないそうです)。そして「懐中電灯の電池が切れると体調不良になる」こともあるそう…(驚)。アラブ人の霊に取りつかれると、お酒が飲めなくなる…。個々の霊に応じて、症例は様々だそうです。
全く信仰体系に入れない外部者には「なりきり演じ」にしか思えないかもしれませんが、憑依を体験している人にとっては、それこそ笑いごとではありません。「スプーンで、卵を食べなくてはならない」んですって…(驚)。
限られた聖者にとっての狭き門である瞑想の「道」と、もしかしたらその根源にどこかで繋がっているかもしれない「パワーソースから現実への解決の糸口をぬすんでくる手口」。こうした多様で面白いアフリカ・アジアの宗教性のありかたについて、さらに比較しながら知りたいと考えています。
明日(1月20日)のターミノロジーVol3研究会の情報は以下の通りです。お時間ありましたらジョインください↓
https://note.com/resm/n/n223b609a9fa7
最後に、メモ程度ですがかんがえたこと↓
(文責 阿毛香絵)
参照
Kashio, Naoki, Carl Becker. Spirituality As a Way: The Wisdom of Japan. Trans Pacific Pr, 2021.
長沼美香子『文部省『百科全書』における「宗教」』 言語情報科学 13, 2015, 121-28.
川田熊太郎『哲学小論集 文化と宗教』河出書房、1948年
中村元「『宗教』という訳語」『日本学士院紀要』46巻2号、1992年