人生は積み減らすべきと、改めて思う'e
災害大国ニッポン
ここ数年の異常気象で、被災されている地域が心なしか増えている気がするが、例えば地震で建物が倒壊したり、豪雨で濁流に飲み込まれる衝撃的な映像を目にすると、改めて自然に対して無力な人類の立ち位置を思い知らされる。
常日頃、発達した都市文明の、命の危機に曝されない環境で過ごすからこそ、自然が猛威を振るった時のことなど、想定することなく日々の忙しさにかまけて何ら対策せず、いざその時にはパニックで何もできずに呆然としてしまう。
だからこそ、平時の時に想定外の事態を可能な限り予測して、それらが起きても慌てないような対策を心がけたいものである。
そもそも日本は地球上にある4つのプレートがせめぎあう位置に島があるため、諸外国と比べるまでもなく地震大国なのは、否定しようがない事実である。
プレートがぶつかり合うことで、地震が起きたり、火山ができるわけで、地熱のエネルギーを温泉として活用したり、微力ではあるが発電する形で、日頃は自然の力に恩恵を受けている側面があるため、一概にプレートが悪だとは言えない。
それに加えて地球温暖化により、海面の温度が上昇すると、海水が水蒸気となり、雲になる。その雲が上昇気流で冷やされると、雨になり大地に降り注ぐ形で循環している。
温暖化で気温が上昇すれば、水蒸気は多くなるから、結果として気圧配置によってスコールのような大雨や豪雨として猛威を振るう。これらを現代人の科学技術でコントロールする術がない以上、日本に住む以上、災害は付き物の前提で生活設計するのが、賢しい選択ではないだろうか。
「持たない暮らし」が理に適っている
そんなことを考えながら、大雨の中、部屋に引きこもって日本株の動きをウォッチする傍らで、防災アプリで近所の河川が氾濫危険水位になっていたため、浸水に備えていつでも動けるよう構えていた。
定点カメラ画像を見る限りでは、氾濫危険水位や計画高を超えそうな様子はないため、万が一に備えて対策したものの、何も起こらずに終わる、いつものパターンだろうなぁ。と内心思いながらも、何も起こらないのが一番だとボヤきながら、床置きしている家電製品の類を底上げしていた。
大袈裟に思うかもしれないが、日頃からルンバ至上主義で、ルンバの走行環境のために床にはモノを置かないのと、冷蔵庫や洗濯機の類は、2〜3年に一度のペースで引っ越している身として、移送や処分の面倒臭さから、とうとう保有しなくなったため、そもそも底上げが大変な家電製品がない。
冷蔵庫は常温保存品+スーパーやコンビニでその日必要な分だけ調達し、洗濯機もトラベル用品の超音波洗浄機と、暇はあるため手洗いを駆使しながら、必要に応じてコインランドリーを併用する形で済ませている。
結果、床置きしている家電製品はルンバ程度なもので、これと比較的低い位置に置いているスキャナを、コンテナを積み上げて高所に避難させただけである。
日頃から土砂災害警戒区域に住んでいることを意識して、所有物はほぼほぼクローゼットの上段(枕棚)に格納しており、床置きしている2つのコンテナも、1つが空でもう1つは衣類しか入れていないため、最悪泥水にまみれても諸々のダメージは少ない。
元々、定住するよりも、色々な場所に住んでみたいアドレスホッパー的な好奇心が満たせるよう、身軽さを追求した結果、ミニマリストを彷彿とさせる持たない暮らしとなっていることが、図らずして災害耐性の強さに直結している。
いざ警報級の自然災害が発生しても、クローゼットのバックパックに旅行用品を格納しているため、MacBookと適当な着替えさえ突っ込めば、連泊仕様の荷造りは一応完了するし、余裕があれば被害を最小限に食い止めるための行動もできる。
選ぶほどのモノがないから、あれもこれもと悩む必要がないのは、日頃は決断力の温存に使えるだけでなく、非常時にも効力を発揮する意味で、やはり定住を前提としない、持たない暮らしが災害大国ほど理に適っているように思う。
最期に「これで良い」と言える人生か?
とはいえ、私はミニマリストがどうも宗教くさくて好きではないし、別に清貧思考を押し付ける意図はない。それでも持たない暮らしにこだわるのは、20代半ばで大病を患い、死を意識した影響が大きい。
人気のない場所で、全く心当たりのない発作に襲われ、119番通報しようにも声が出せず、自分から何も伝えられない状態から、詰んだと察して通報を諦め「この発作がもし心筋梗塞なら、人生がここで終わるな」と思いながら倒れた。
1ヶ月間の入院、手術で命は繋がったが、その時に生前に何をしても結局、墓場には何も持って行けない真理に、まざまざと気付かされた。尊敬する岡本太郎氏の著書にも、過去の累積物にこだわると、身動きが出来なくなるから、人生は積み減らすべきだと思う。と自論を展開している。
工業高校卒でありながら、転職で収入アップを実現し、正規雇用でそれなりにネームバリューのある電鉄会社、20代ながら中央値よりは少し高い賃金と、出自を考えれば恵まれた地位だったのかもしれないが、それにしがみつこうと無理を重ねた結果、ストレス過多で内臓を悪くして摘出。
不確かな未来への打算から、身動きが取れなくなり、”今”を生きていなかった。入院時にそんな後悔ばかりが積もったからこそ、今、必要性を感じないものは手放し、積み減らしている。
いつ何が起こるか分からないのが災害であり、Apple創業者のジョブズ氏ではないが、たとえ今日が最後の日だとしても、これで良いと思えるような生き方を、自分は出来ていないと思うなら、それを阻害している要素を積み減らしてみる価値はあると思う。
[増補]必要な時に、必要な分だけ稼ぐ副産物
戦後復興から高度経済成長期、バブル期に至るまで、「たくさん稼いで、たくさん使う」が豊かさの象徴だった。
しかし、平成の失われた30年に生まれ育った身としては、生まれてこの方、好景気を実感したことはなく、上がらない賃金。それに反して上がり続ける税金。そして徐々に小さくなる食べ物。
昨今のインフレが生じるまで、日本は長いことデフレ社会と言われていたが、正確には量を減らす形でのステルス値上げが行われていたのだから、シュリンクフレーションが正確だろう。たとえ名目値は据え置きでも、実質的には値上がりしている。
インフレの本質が通貨価値の下落なら、余剰資金を絶えず価値あるものに変換する必要があるが、不幸にも日経平均株価はバブル期に付けた最高値を更新するまでに、およそ35年もの時間を要した。
つまり、余剰資金を価値あるものに変換する難易度が高かった30年とも捉えられ、リーマンショックの煽りもあって”投資はギャンブル”の意識が大衆に根付き、今も預金信仰が根強いのだろう。しかしそれではインフレで保存している筈の価値が、悪戯に目減りする一方だ。
そんな時代を生きる若い世代の一部で「たくさん稼いで、たくさん使う」ことが”損”だと考える者が出てきても不思議ではない。
そんな現代を生きるのに最適化した結果、稲盛和夫の実学でも触れられている「必要な時に、必要な分だけ」が合理的だとする価値基準こそが、若者の〇〇離れや、出世欲のなさ、断捨離ブーム、FIREムーブの根源となっていると考えれば、おおよその辻褄は合う。
そうして耐乏生活に慣れることは、もし生かさず殺さずの年収200〜300万円前後で重税に苦しめられる状況だった場合に、いっそのこと稼ぎを学生バイトや専業主婦(夫)のパートレベルまで落とすことで、合法的に重い税負担から解放される選択肢を持つことができる。
これこそが必要な時に、必要な分だけ稼ぐメリットであり、副産物として、大量生産大量消費のアンチテーゼにもなる。
まだ使える物を人間のエゴで捨てるのが、豊かさだと履き違えているならば、最終処分場の残余年数である、およそ20年後にその豊かさの代償を支払う羽目になるのは明白だ。
この社会が、いつまでも大量消費している場合ではないフェーズに突入しつつあることを肝に銘じた上で消費行動を取るのが、将来世代の事まで考えた賢しい選択であり、決して「働きたくないでござる」から来る怠惰ではないと、正当化したところで筆を置く。