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金銭的尺度だけで「裕福」と「貧困」を線引きする底の浅さ


額面だけ増えても貧困状態に陥りかねない

 吾輩はドロップアウト組である。かつての名は、社畜もとい種銭捻出マシンとでも表現するのが適当だろう。現在は金融資産を後ろ盾に地方で隠居生活しており、働き口に困るような場所だけあって、暮らす分には長閑なところで、淡々と月10万円程度で暮らしている。

 たまには旅行したり、オシャレかは兎も角としてmont-bell製品を買ったり、鰻を食べたりするだけでなく、個人投資家という名の無職よりは、大学生の肩書きがあった方が、一応は社会的信用が得られる点と、生涯学習も兼ねて通信制大学に在籍しているため、学費もそれなりに掛かる。

 これらを含めての月10万円生活であり、必要最低限まで切り詰めれば、恐らくもっと安価に暮らせるが、現時点でそうしようと思わないのは、長期で見ると純金融資産が増え続けているからだ。

 手取り13万円の社畜時代に、5万円の先取り貯蓄を行っていた頃から、生活水準を一切引き上げていない身からすれば、家計を月8万円以内でやりくりできる能力がある中で、2万円も多く使える今は「裕福」な状態と言える。

 しかし、一般論では月あたり12〜13万円貰える生活保護よりも、少ないお金で暮らしている状態であり、これを「貧困」と捉えられがちである。

 私は自転車のパンク修理や、散髪でセルフカットなど、お金に頼らずとも、ある程度のことは自分できる器用貧乏さがあることから、健康で文化的な最低限度の生活が営めるコストが金銭換算で安くなる傾向にある。だから、必要なものが乏しく「貧しい」状態でもなければ、「困ってもいない」。

 一方で、医療費のことを考えたら、資産所得で自活するよりも生活保護の方が経済的には合理的だろう。

 私の場合、ドロップアウトが選択肢に入るレベルで、20代半ばに大病を患い、内臓を摘出したことで、後遺症とも捉えられる持病持ちとなったことから、健常とは言い難く、医師に頼めば恐らく診断書も出るため、中途半端な資産を豪遊して使い切ってしまえば、ナマポが受給できる可能性は高い。

 しかしそこで、ナマポで大学の学費を支払うのはいかがなものか。とケースワーカーに言われて、学びを取り上げられてしまうと、知的好奇心旺盛な私にとって必要なものは「乏しく」なり、瞬く間に「困った」状態となるため、月に12〜13万円貰えても「貧困」状態となるだろう。

 生活保護はセーフティーネットという性質上、用途が必要最低限の生活費に限定される。そのため、必要最低限の生活費の一部分を、お金以外で賄えてしまう私にとっては、用途が制限されることで、却って保護費だと行き場を失ってしまう。

 つまり、額面だけ増えても貧困状態に陥りかねない意味で、「貧困」を金銭的尺度で相対的に判断するには限界があると考えるが、いかがだろうか。

誰かの犠牲によって、安くて高品質な社会インフラが成り立っていたデフレ社会

 若いのに無欲でけしからん。何が楽しくて生きているのか。と戦後復興から高度経済成長、バブル期に至るまでの、右肩上がりで経済大国に成り上がった時代を経験している世代ほど、たくさん稼いでたくさん使うことを是としがちである。

 しかし考えてみて頂きたい。平成不況の中で産声をあげ、失われた30年のデフレ経済を生きてきた若い世代が置かれている状況を。

 不況で正規雇用は解雇規制が厳しいから雇いたくないと、解雇規制の緩和ではなく、就職氷河期世代を生み出し、若い労働力が非正規雇用に流れた時点で、終身雇用は正規雇用の特権に。

 もっと言えば、変化が激しい時代となり、企業が短命化したことで、大企業に入れるような、一握りの学歴エリートの特権になった。

 正規雇用の間口が狭まったことで学歴社会となり、借金を背負ってでも大学に行かざるを得なくなったが、少子化を口実に学費が高騰。苦学したところで就くのは大卒でなくてもできる作業ばかりなうえ、「1円でも安く」が正義なデフレ社会故に賃金は安く、手取りは20万円に満たない。

 その歪みが社会を維持する上で必要不可欠な、かつての私のような鉄道員(エッセンシャルワーカー)が、正社員かつ健康を害するシフト勤務にも関わらず、手取り13万円と生活保護と大差ない状況を生み出した。

 社会を支えているにも関わらず、薄給激務な待遇に文句を垂らせば、稼げない職に就いたお前が悪いと自己責任論が蔓延り、その典型が”日本がおわってんじゃなくて「お前」がおわってんだよwww”のようなインフルエンサーの煽りだろう。

 誰かの犠牲によって、安くて高品質な社会インフラが成り立っている現実を、社会全体で直視せずに自己責任論で切り捨てた結果、今になって公共交通機関のドライバー不足で減便や廃止が相次いでおり、その状況を目の前にしても、「稼げない職に就いたお前が悪い」と切り捨てられるだろうか。

人間もゼロから生まれて、ゼロで死ぬ

 そもそも、社会に出たばかりで経済的基盤が確立できていないどころか、奨学金という名の教育ローンにより、債務超過状態からスタートする若者と、取り敢えず目の前の生活をする分には困らないナマポと比較して、月当たりの貰える金額が大差ない状況はどう考えても異常だろう。

 せめて労働者の賃金はナマポ以上。欲を言えば、年金受給者の最大額である37万円辺りを下限としなければ、就労意欲が削がれるのは明白である。

 そんなナマポと大差ない手取りの若者が、将来不安を払拭するために貯蓄に励む過程で、先立つお金がないからこそ、金銭消費以外の「何か」に重きを置いたり、価値を見出すのは必然と言えるだろう。

 高度経済成長期に、明日は今日よりも良くなると信じて疑わず、夢や希望に溢れていた世代からすれば、大量生産大量消費を是とする、貨幣経済の枠組みに嵌まることで、たくさん稼いでたくさん消費することが、豊かさの象徴だったのだろう。

 しかし、デフレ社会で育った身からすれば、物心着いた時から物質的な豊かさは満ち足りており、むしろ万年不況による過当競争で、1円でも安いものが正義なコスパ至上主義と化した社会で、貨幣経済の枠組みに嵌まることは、労働力を安く買い叩かれるネガティブな印象が先行する。

 そこに加担しない試みが、無欲、知足、消費しないという、禅の精神にも通じる「無形の何か」が豊かさの象徴にシフトした訳で、若い世代の金銭消費意欲が弱いのは、上の世代が生み出した社会環境に順応した結果に過ぎないと思うが、いかがだろうか。

 むしろ我々若い世代は、普通に生きている限り、たくさん稼げる訳でもなく、たくさん消費できる訳でもないような環境だからこそ、生活水準を上げなくとも幸せに生きる引き出しが豊富で、自分を満足させる金銭的ハードルが低いとも捉えられる。

 むしろ、生活水準がバブリーな時代を忘れられずに、厚生年金は上限の32等級。すなわち月給65万円以上の生活をしていた人が、そのまま定年を迎えて現役世代の手取り2〜3倍に相当する月37万円の年金を受給できたとしても、現役時代比で28万円足りないみたいな惨めな思いをしかねず、これでは老後2,000万円不足どころか1億80万円不足問題となり、貯蓄で備えるのは現実的ではない。

 人間も生物である以上、どうせ最後は死ぬ。つまりはゼロから生まれて、ゼロに戻るだけなのだから、財産、地位、権力などの多くを追い求めて、抱え込む人生が幸せとは限らない。

 そう思えるようになると、金銭的尺度だけで「裕福」と「貧困」を線引きする人たちの、底の浅さを感じるのは私だけではないはずだ。


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