学校成績という偏った評価。
学校での成績が良いと、進路の選択肢が広がるのは事実だ。でも、学校成績そのものが偏った評価であって、絶対ではないことを知っていると、成績が悪くても思い悩む必要がなくなる。
義務教育で習う科目は、先生が採点しやすいもの。
成績は数値化できる能力に限定されて偏っているのだ。国語や数学、英語などで、良い評価を貰うために、あらゆる科目に共通する仕組みは、
何かを覚えて、それを正確に再現すること。
点数を付けるのが難しい芸術や音楽、運動能力や対人スキルがどんなに高くても、東京都の高校受験において内申点は3割しか評価されない。人によって得意不得意があるのに、何かを覚えて、それを正確に再現する学力試験で7割決まってしまうこと自体がおかしい。だから偏った評価だと捉えることができる。
社会階級の再生産している残酷な現実。
社会学でハビトゥスと言う用語がある。これは、仕草や身振り、手振り、口ぶり、上品さなどの社会によって染み付いた行動や思考の型で第二の天性とも言われている。
このハビトゥスの形成に大きな影響を受けるのは家庭環境だ。ピエール・ブルデューによると、上流階級のハビトゥスを持つ子供は、学校教育の文化的な価値に馴染めるが、下流階級の子供は馴染めないことから、社会階級を再生産しているに過ぎないと主張している。
日本で社会階級を意識する機会はそうそう無いが、調査によって、東大生の親の半数以上が平均年収950万円超であることが明らかになった。
一般の大学だと親が平均年収950万円超である割合は2割弱だから、経済格差が教育格差につながっているのと思わざるを得ない。
裕福な上流家庭で育った子供は、教育や文化に触れる機会が多く、そうして幼少期に形成されたハビトゥスは学校教育の文化的な価値に馴染みやすく、学校教育で良い成績が取れるわけだ。でも、上流家庭のもとで育つことが出来なかった私たちは、それを嘆いたところでどうしようもない。
でも、諦める必要なんてない。
確かに、上流階級のハビトゥスを持つ子供は、何かを覚えて、それを正確に再現することが得意で成績はいつも上位だ。そして、成績が良いから当たり前のように大学へ進学する。
ただ、大学の本分は研究機関だから、暗記が得意な生徒ばかり集めても、問題意識を持ち合わせていなければ、ユニークな研究を行うのが難しく、大学側も課題と捉えている。
そこで、大学も教育環境を活性化する名目で、個性や人物像、学習意欲などが評価されるAO入試を取り入れて、個性的な人を確保しようとしている。ようやく、学校での成績が偏った評価であることを認めて、変わろうとしているのである。
他人とは違う個性を打ち出せる面白いやつが重宝される時代。
これからは、周囲の常識に縛られる必要なんてない。常識なんて過去の価値観に過ぎない。現代社会は目まぐるしく変化しているから、常識にも常にアップデートされている。過去の常識に囚われて人並みの人生を歩んでいると、いつか時代の変化について行けずに取り残されるだけである。
万人受けを狙いに行く必要なんてない。AIやロボットによって人間は単純作業から解放される未来がすぐ目の前まで来ている。
単純作業から解放されて、高度な仕事しか残らなかったら、9割以上の人は失業するだろう。そんな時、お金持ちに「コイツ面白い」で、一役買われるだけの個性を有していれば、それは立派なエンターテイメントと言えるのではないだろうか。