panda_63:引き際
少し前から、辞世の句にハマっている。ふとしたときに辞世の句を検索して、その時の心に響くものを見つけている。
故人が最期に遺した31文字に込められた意味を、その人の生き様を参照しながら考えるのが楽しい。
「花は散り際を知っているからこそ花として美しい。人間もそうであらなけれならない。(私も)今こそ散るべきときである」といった意味だろうか。少し前に、どこかの政治家が引用して有名になった句でもある。
さて、細川ガラシャについて、簡潔にご紹介します。
彼女は、明智光秀の三女として生まれる(1563)。名前は珠。
後に、明智光秀の主君である織田信長の勧めにより、室町幕府第13代将軍足利義輝に仕えた細川藤孝の嫡男、細川忠興の元へ嫁ぐ(1578)。
本能寺の変の発生後、父の明智光秀が討たれ、「逆臣の娘」として幽閉される(1582)。このような中で、キリスト教の洗礼を受け、細川ガラシャとなる(1586)。
当時は、バテレン追放令も発布されており、キリスト教の信仰は禁じられていた。こうした状況で、洗礼を受けた後に、ガラシャは忠興に自身が改宗したことを伝えた。
元々、夫婦仲の良かった忠興とガラシャだったが、これに忠興が激怒したため不仲になっていった。その一方で、ガラシャの信仰はより一層深まっていったという。
秀吉が死んだ後の1600年、忠興は徳川家康に従って会津へ出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分が不在の際に妻の名誉に危険が生じた場合は、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じていた。
折しもこの隙に、西軍の石田三成は細川の屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。やがて、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャにその旨を伝えると、ガラシャは祈りを捧げた。自殺がキリスト教で禁じられていることもあり、家老がガラシャを介錯し、遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて、ガラシャは自刃した。享年37歳であった。
その死を知った忠興は大変悲しみ、ガラシャのキリスト教信仰に猛反対していたにもかかわらず、教会葬に参列したという。
その人の生き様をダイジェストでも良いから知ったうえで、辞世の句を解釈してみると、また味わいが変わってくる。
個人的には「既得権にしがみつく人たち」「引退するタイミングを間違えてしまった人たち」「なかなか後進に道を譲れない人たち」を見たときに頭に思い浮かぶ句でもある。
自分はどんな辞世の句を遺して旅立ちたいか、を考えてみるのも面白いかもしれない。