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panda_133:「汝」となる条件
引き続き、宮台真司、近田春夫著『聖と俗 対話による宮台真司クロニクル』より引用します。
戦間期の社会学者ミードは、自発性ならぬ内発性を擁護するプラグマティストで、相手に生じる反応が直ちに自らに生じる「なりきり role taking」の構え―後にストローソンが反応的態度 reactive attitudeと呼ぶ―だけが内から湧く力を与えるとします。相手が法(テンプレ)を破る営みを欲した瞬間に自らもそれを欲する時、相手が「汝」として現れます。
非常に難しい書き方をしているので、わかりにくいかもしれません。ポイントは、法(テンプレ)を破る営みを欲し合う関係性の大切さです。
宮台真司氏は、しばしば「クズ」という挑戦的な言葉を用います。宮台氏の言う「クズ」とは「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」に成り下がった人間を指しています。
私は、こうした宮台氏の言説を頼りに、ここでいう「法を破る」とは、思考停止で「法の奴隷」とならず、仲間うちの「掟」を優先させたり、「たとえ法を破ってもあなたを守る」「社会はあなたを非難するかもしれないが、わたしはあなたを受け入れる」という姿勢を見せたりすることを意味しているのだと解釈しました。
大切な友人や恋人に対して、「何があろうと、周りが何と言おうと、私はあなたが好きだ、あなたを愛する」と言えること、こうした姿勢を見せること。それは心から「代替不能な汝」であることを伝える営みだと思います。
また、「合理性」とか「損得勘定」ではなく、「仁義」とか「義理人情」とかそういうものを大切にする関係性はまさに「代替不能」だなと感じます。まだまだ上手く言えないのですが、今の時代だからこそ(一見逆行しているように見える)こういった人間関係を築けるかが試されているような気がしてならないのです。