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【ポスドクエッセイ】私の大学院時代の足取り~また、その後の足取り~[後編]


東洋大学東洋学研究所奨励研究員 中村元紀

哲学の研究をしているポストドクターの中村さんのエッセイ後半です (前半はこちら) 。博士課程に進学し、度重なる論文のリジェクトなどの苦難を乗り越えて、いよいよ博論執筆が始まります。しかし、またも苦難が続きます。博士号取得後の進路、業績重視の風潮への批判、そして専門の哲学の視点を交えた博士号取得後の生き方とは・・・?
(本文:10471文字)


4. 博士論文執筆時の私


 指導教官からは、博士論文を作成するにあたっては24万字以上のものを作成せよ、という指示を受けた。あまりにも途方にない文字数に、私は恐れおののいた。たしかに、修士論文は20万字程度のものを作成したが、学術的観点の欠いた些末なものであった。そのため、私にとっては一から書き直すような仕方で、実証性・新規性・独自性を兼ね備えた 24 万字の論文を作成しなくてはならなかった。その当時、博士後期課程の中で博士論文として使えそうな論文をすべてかき集めたとしても、4 万字程度しかなかった。そうしたこともあり、指導教官は「一日 400 字を必ず書き、それを毎日続けるように」と指示し、それが達成できないときは必ずといっていいほど、罵倒に近い叱責が飛んだ。ただ、そのノルマは容易に超えられるものではなかった。そのため、私は指導教官からの叱責を恐れて、書いた文字数を偽って申告するようになった。「今嘘を言ったとしても、結果としていい 出来のものがいつか完成していれば、それでよいのであって、今必死で頑張って書いていき、あとで取り返せばいい」という強い思いを秘めつつ、私なりに真摯に博士論文執筆に 取り組んでいた。本読んでは書き、本を読んでは書きを繰り返し、なんとか規定の文字数 をクリアしようとしていた。しかし、提出締切日の一か月前に博士論文を完成し、提出せよ、という指導教官の指示があったにもかかわらず、その時点で私は、おおよそ16万字程度しか仕上がっていなかった。

 また、私が執筆した文字数を偽って申告していたことも指導教官にバレた。そのとき、指導教官から今までにないほどの大きな怒号と檄が飛んだ。その気迫に圧倒され、たじろぎ、自分の不甲斐なさに身も心も悲しみに打ちのめされた。また同時に、心のうちでは「ふざけんな!こっちは死ぬほど努力しているのに、そこまで心にないことを言うんじゃねえ!!」という指導教官に対する怒りと恨みに燃えていた。

 この時分は、ここには書き表すことができないほどの複雑な感情に見舞われ、それに身を悶えていた。「私の書いている博士論文は、結局のところ、指導教官に納得できるほどの代物では到底ない!今までの努力は無駄だったのだ!!今まで研究のために書いた論文、 また買った古書など全て燃やしてやる!!!どうなろうともかまわない!!!」という後悔と自分に対する絶望の念。「だが、それで諦めてしまったら、また指導教官に怒られてしまう。思考が全くまとまらないが、それでも書き続けていくしかない。だが、果たして指導教官の求める文字数に敵う形で、博士論文を締め括ることができるのだろうか」、というこの先も博士論文を完成させなければ、明日に生きる価値はなしとして、結局書かざるをえないことに対する諦念と、「果たして本当に完成できるのだろうか…」という漠然 とした不安。そして、自分の未熟さゆえに嘘をつき続け、いつもお世話になっている指導 教官の思いを裏切ってしまったという自責と悔悟の念。そうした複雑な感情がごちゃ混ぜに入り乱れているかのような、なんとも言えないような心持ちの中、それでも必死で締切 までの残りの 1 ヶ月間、筆を執り続けた。執筆中は、いつまでたってもなり止まぬ不穏な 胸の高鳴りと抑えきれぬ手の震えで夜も眠れぬほどであったが、それでもなんとか完成に こぎ着けた。

 それが、博士学位(甲)請求論文「ヤスパース研究―ヤスパース哲学におけるキェルケゴール思想からの影響―」である。結果として、24 万字にはわずかばかり届かない文量になってしまった。

 完成後、指導教官に会い、指導を受ける約束をしていた。しかし、また指導教官に怒られる!と考えた私は、心底指導教官に会いたくなかった。逃げ出したかった。だが、逃げたところで何もならんと思い、結局指導教官に会うことにした。

 すると、出会うや否や、今までになく優しく丁寧な態度で私を気遣ってくれた。その態度に私は呆気にとられ、夢でも見ているのではなかろうかと思った。私は今まで、その指導教官から怒られた経験しかなかったからだ。

 文字数が 24 万字にわずかばかり届いていないことを指導教官に正直に伝えると、「素晴らしい!十分だ!」と言ってくれた。少し心が救われた。

 無事期限内に博士論文を提出し終えた私は、本当に書き終わったのだろうか?と狐につままれたような思いがした。どこか上の空で、何をやるにも気持ちが追いつかず、全てのことに億劫になっていた。特に論文はもう書きたくないとして、パソコンの前に座るだけでも強い嫌悪感を覚えた。

 だが、私の博士論文は、十分に論じきれていないところが多々あり、私の中では完成しきれていないものでもあった。そのため、もう論文を書きたくないという思いと同時に、今からでもいいから書き直したいという矛盾した思いが生まれ、なんとも言えないアンビバレントな心持ちでモヤモヤした感情は消えなかった。

 だが、そうした思いに浸っていられたのは、ほんの束の間の瞬間であった。約 2 ヶ月後には口頭諮問が待っている。それに答えられるように準備をしなくてはいけない。そう思いつつも、未完成の博士論文を改めて読み返す気にはなかなかなれなかった。また、口頭諮問の準備というが、何をどう準備すればいいかよく分からなかった。とりあえず、博士論文を読み返し、スペルミスや内容として不充分と思われる箇所を見つけ出し、それに答えられるようメモを付記しておくことにした。

 とはいえ、やはり口頭諮問には行きたくはなかった。口頭諮問当日になってもなお、その気持ちは残り続けた。あまりにも恥ずかしい博士論文を書いたことで、主査・副査の先生方はとんでもなく激昂しているに違いない、と思っていたからだ。特に指導教官は、以前博士論文の途中経過を発表した際に、「こんな奴が博士号取るのかよ!!」と言って、私が書いた論文を投げ捨てたこともあった。

 しかし、その予想に反して、口頭諮問は、主査・副査の先生方がそれぞれ終始和やかなムードで審査が行われた。怒られるどころか、むしろ褒められた。また私自身、卒論の口頭諮問時のように、答えられず言葉に詰まるようなことはなかった。

 その後、無事審査が終わり、博士号の授与が認められることになった。主査である指導教官からは、恐れ多くも「現在、ヤスパース研究においてもキェルケゴール研究においても、それぞれの哲学思想の枝葉末節な部分や、哲学思想の一部を切り取って仔細に論じる傾向が強く、どちらかと云えば技巧的な面に力点が置かれているのであるが、本学位請求論文は、とりわけ限界状況下を生き抜いたヤスパースの実存哲学の最も重要な核心部を、はっきりと取り上げており、ヤスパースやキェルケゴールのドイツ語文献やドイツ語訳に正面から取り組んで、本学位請求論文自体が一種の実存哲学思想を継承している点でユニークであり、きわめて有意義なものとなっている」という評価を頂いた。

 我が母校では、コロナ禍ではあったが、卒業式および博士号学位記授与式が執り行われることとなった。

 卒業式は、例年通り武道館で行われることになっており、私が学部や博士前期課程を卒業した時も、卒業式は武道館であった。

 しかし、今までと違ったのは、私が座る席だった。私は式典が行われる壇上の真っ正面に座ることになった。さらには、コロナ禍とはいえ、何万人もの卒業生がいる中、博士号取得者ということで、一番始めに私の名前と博士論文の題目が読み上げられ、起立を求められた。他の卒業生の注目を浴びている間は、私は他でもない俊英たる人間であるかのような気がして、清々しく居心地がよかった (実際、私は単なる愚弟の分際に過ぎないのだが... )。またコロナ禍により、卒業生以外の出席は認められなかったため、youtubeを介しての中継放映となったが、私の映し出された顔を見て、家族は喜んだと言う。

 その後、母校に戻り、博士号学位記授与式が執り行われた。そこでは、学位記や記念品の万年筆など数々の品々をいただいた。職員や先生方からは、私に会うたびに「この度は博士号取得おめでとうございます!」と挨拶された。皆が私の博士号取得を祝ってくれているような気がして、「博士論文を無事書き終えてよかったあ」と嬉しく思い、ようやく安堵した。

 学位記授与式の後、指導教官が「今日は私の奢りだ!」と言って、パン食べ放題のレストランに連れていってもらった。あまり指導教官と食事に行ったことはなかったが、余程嬉しかったのか、私の食べたい料理以上の品数を注文していただき、それ食べろ!やれ食べろ!と言わんばかりに、私の口に次々と料理を放り込んだ。かなりお腹がいっぱいになってきたにもかかわらず、相変わらず指導教官は私に料理を口に放り込む、というか押し込んでくる。指導教官にも食べていただきたいと思い、数量限定のパンを半分だけちぎり、 それを渡すと、「貴様!満腹だといって、俺に大きい方を寄越しやがったな!こっちを食べろ!なんなら全部食べろ!!」と言って、私が渡したパンを私の口に押し込み、さらに は種々様々なパンを追加注文した。いや、もう食べられないんだが...。今までこんなにたくさんパンを食べたことがないくらいの食事をいただいた。実際、三日三晩何も食べずとも空腹にならずに済んだ。今までにない朗らかな指導教官の様子を見ることができて嬉しかった。

 今でも指導教官とは懇意にさせていただいている。会うたびに、指導教官の恐ろしい鉄拳が飛んでくるかと思い、いつも手に汗をかいてばかりだが、その思いとは裏腹に、今ではとても優しく礼儀正しく親切に接してくださる。

 一応、一人前の研究者として認めてくださった、ということなのだろうか...? (ただ時折 厳しい叱責とご指摘もいただくので、まだまだ精進が足りないということではあるが)

5. 博士号取得後の私


 博士論文執筆時に今ある私の全ての力を総動員したせいか、博士号取得後の私は様変わりした。

 まず体型が変わった。コロナ禍で大学院や図書館に通えず、一人家の中で黙々と博士論文の執筆を続けていたこともあってか、1 年ほどで一気に 8 ㎏程度太った。そして、その体重や体型は、今も変わらず、むしろ毎年ドンドンと太ってきているような気がする。

 また、身体が疲れやすく、今までやっていた趣味に没頭したり、好きなものを好きなだけ食べたりすることもだんだん楽しくなくなってきた。

 今までは、長年やっているバスケットボールで汗をかいたり、好きなアニメを観たり好きなラーメンを腹一杯食べたりすることをやるだけで気分が晴れ、すぐさま満足して、研究に向かう姿勢に切り替えることができた。

 しかし、今では何をやってもどこか不満が残り満足ができず、すぐさま研究に向かう姿勢がなかなかどうしてか作れなくなってきている。今までの自分の趣味が苦痛となったり、 快感を覚えず漫然と事をこなしたりするような状態に陥ってしまっている。また以前は、 「1話30分のアニメを観たら、すぐ研究書を読もう!」、「お昼の12時まで遊んで、そこ からすぐさま論文を書こう!」と心の中で時間設定をして、遊びと研究の時間のメリハリ をつけていたものだが、それももはや効果がなくなり、アニメの続きが気になるということで、1 話だけでは飽き足りず、結局全話通しで観てしまったり、研究を行う定刻になっ たとしても、あと1時間...いや2時間後...5 時間後......やっぱり今日はいいや、となって、 一日中ダラダラしただけの空虚な時間だけを過ごしたりしてしまっている。

 「運動や趣味はいい!それに没頭したら、健康になれて、気分もよくなり、プライベートと仕事のメリハリがつく!」というポジティブな主張を誰かがしたとしても、私の心にはなかなか響かない。たしかに、私を励ましてそのように言ってくださること自体は、とてつもなく大変ありがたいことである。深く感謝申し上げたい。

 だが、そうした人生のハウツー本や自己啓発本の類のもので発せられる言葉は、「万人」 にとって当てはまるような、またどこか紋切り型で語られているようなものである。とすると、その言葉は「この私」の心を射貫くほどのものになり得ているのだろうか?否、必ずしもそうではないのではなかろうか?と邪険にも疑念を抱いてしまう私が常にいるのだ。 そのように博士号取得後の私は、何をやっても気が紛れるようなことはなく、どこかやるせない気持ちのままであった。

 満たされぬ心の空白を十分に埋めることもできない、そうした漫然とした日々が続く中、 以前非常勤講師としてお世話になった高校の先生から、「わが校の専任教員の採用試験を受けないか?」というお誘いをいただいた。博士論文執筆で人生のすべてのエネルギーを 使い果たした私は、卒業後の人生など考えている気力さえなかったが、「とにかく手に職 を!でないと食うに困る!」と思い、出願を決めた。「修士号取得後に、高校教員にでもなろうと考えていたわけだし」とも思っていた。書類選考は通過したものの、そもそもすでに気力も体力も底をついていたことから、気もそぞろのままに、最後の模擬授業と面接 試験に臨んだ私は、当然ながら不合格となった。

 とりあえずはその高校で非常勤講師として雇っていただけることにはなったが、やはり自分の至らなさに悔しい思いをした。

 2021 年 4 月からは、その高校の非常勤講師と、以前から続けている大学のティーチング・アシスタントの勤務を行うことで生計を立てていた。

 その頃は、収入が少なくとも、まだ自分の研究に時間を割くことができた。その間に、さらに業績を積み上げて、私が書いた博士論文に加筆・修正を行って、著書として出版しようと考えていた。それが、文系研究者にとってのステータスとなっているからだ。

 夏休みに入る頃になると、その高校で任期つきの専任教員の公募が始まった。私はそれにすぐさま応募した。その採用試験と公募論文の締め切りの時期が重なったため、多忙を極める中での受験であったが、なんとかその高校で任期つきの専任教員として採用されることとなった。

 だが喜びも束の間、やはり高校の専任教員の勤務はかなりの多忙を極めた。

 非常勤講師であれば、授業準備や期末試験の作成だけをやっておけばよかったのだが、それに加えて部活動指導、職員会議、校務分掌による勤務等々……が私の肩にのしかかってきた。また担当する科目も増え、今までの「現代社会」・「日本史A」に加えて、「世界史 A」・「日本史B」・「公共」なども担当することになった。

 私の専門は哲学であるため、地歴公民科の科目であれば「倫理」を担当するのが妥当ということになろうが、学校によっては専門外の科目であれ、担当せざるを得ないのである。 それが地歴公民科教員の宿命でもある。

 そのため、「哲学の研究を続けたいのに、なんで専門外の日本史なぞやらなきゃならんのだ!!!」という思いに駆られ、授業準備をするにも億劫になり、そのとっかかりには随分と時間がかかった。

 だが日本史や世界史は、その当時の時代の雰囲気や歴史的背景を学ぶことができたため、 自分が今まで取り組んだことのない領域にも着手し、自分の見識を広げることができた。 このように、日本史などの私の専門とは異なる分野の勉強は、わずかばかりとはいえ、私の研究分野にも関連するものがあったりする。そう考えると、やっていくうちに段々と楽しくなっていった。少しずつだが、私の教養を深めてくれた。また、高校の専任教員として扱われていたため、ボーナス等の支給もあり、安定した収入を得ることができた。博士論文執筆後の私の通帳は、一度 0 円に近いほどの金額を示していた。しかし、任期つきの専任教員を約1年半勤め終えたときには、お陰様で30歳代男性の平均貯蓄額にまで収入が回復した。今となっては感謝してもしきれない。だが、そうは言っても、専任教員を勤めていた頃は、依然として十分に自分の研究を行えるほどの余裕はなかった。それどころか専任教員としての勤務を始めてから最初の三週間は、睡眠時間が平均して 4 時間程度しかなかった。その後、なんとか慣れてきて、十分に睡眠時間を取れるようにはなってきたものの、8時30分~17時の定時勤務に加えて、時折職員会議や部活動による残業もあった。

 そのため、学術大会への研究発表や、身内で行う勉強会に参加したくても、タイミングが合わず、参加を見送ることがしばしばだった。その頃の私は「今まで十分な業績を作れていないからこそ、今必死で研究しないといけないのに!!」と焦りつつも、高校の業務 11 を投げ捨てることなどできず、苦渋を飲んでいた。十分な収入を得たから、これ以上研究 はもういいかなと諦めがつくのかと思いきや、やはり研究に対する未練がまだ残っていた のであろう。

 博士論文を著書にするまでは研究活動を終わりにすることはできないというこの思いは、 今でもある。そんなわけで今でも研究活動を続けているのである。

 たしかに高校の専任教員になったとしても、研究活動を続けていくことはできないことではない。

 私が任期つきの専任教員として勤めた高校では、科研費の申請が可能であったりした。

 そのため、本人の気持ち次第ではあるが、高校の教員になったから、会社員になったから、と言って、研究を諦める必要はない。これは文系研究者だから言えることであると思われるため、全ての研究者に当てはまることではないと思うが、最低でも文献研究を行うことができる環境、すなわち ILL サービスが使える大学図書館や国会図書館などが使える環境さえあれば、研究を続けていくことができるのである。また、私が所属している東洋大学東洋学研究所のような学内の、もしくは学外の研究機関に所属することができれば、その身分で研究活動を続けていくことも可能である。

 ただし、そのように在野として研究を続けていくには相当の努力と忍耐力が必要であると私は考える。

 研究機関に属しておらずとも、学会の学術大会や勉強会に積極的に参加して、常に研究者との交流を続けつつ、労働の合間を縫って、研究発表や論文投稿を続けていかなくてはいけないのである。日々の労働で疲れている中、さらには研究する余暇もないほど時間に追われている中でも、十分な研究成果を出せるのか否か、それについては私自身もわからないが、それでもやるしかないのである。在野として研究を続けたいのであれば。

 そのように在野研究ではこうした苦境に強いられるからこそ、私は研究活動を安定して続けることのできる大学の専任教員の職が欲しいのである。

 だがしかし、大学の専任教員の職を得るためには、業績が必要である。専任教員の募集要項を読んでみると、査読付き論文の作成の他に、学振などの競争的獲得資金、留学経験、 大学などの高等教育機関への勤務経験の有無等が求められていることがわかる。それらがなくては、たとえ出願を行ったとしても、書類審査の時点ではねられてしまう。かく言う私も、何度か専任教員試験への出願を行ってはいるが、やはり業績が少ないということで、 何度も書類審査の時点で落選となっている。

 また現在、哲学界隈においては、実存哲学およびヤスパース哲学のニーズ自体かなり低く、その研究者の母数そのものが少なくなっている状態にある。そうしたこともあってか、ヤスパース哲学について精通している研究者が少ないがゆえに、いくらヤスパースを題材に論文を作成しようとしても、なかなか査読に通りにくいのではなかろうか?と不安になったりもする。「やはり査読に通りやすい、今流行りの分野の哲学にすればよかったのだろうか…」と思案にふけることもある。いや、むしろ「実存哲学、ましてやヤスパースなんて古い、古い!今更誰も見向きもしないよ!!」と揶揄されるがままに、私の研究人生はこのまま終わりを迎えるのだろうか…とふと思い悩むこともある。

 しかしこのように、世間の常識からみると、常識外れの人間だと疎まれ蔑まれながらも、 またこうした逆境に立たされながらも、それでも自分とって「これが正しい!」と心の中 で信じた信念を曲げずに生きようとする姿勢、すなわち「主体的真理 subjektive Wahrheit」 を常に求めんとする生き方こそ、まさに独創的で個性的で、自分らしい生き方をしている者、すなわち「実存」であると言えるのではなかろうか。そうした人物のことを、実存哲 学の領域においては、「例外者 Ausnahme」と呼ばれる。これについての簡単な例としては、 THE BLUE HEARTS の曲「ロクデナシ」をイメージしていただければ、幸いである。

 このように言ってしまうと、「私はまさに例外者である!」と自称していることになり、 それはあまりにも自己誇張が過ぎるもので、私自身気恥ずかしいことこの上ない。しかしそれでも、そうした「例外者」としての生き方を重要視する実存哲学、ないしはヤスパー スの思想には心打たれるものがあり、また社会から求められている常識や要請に順応できずに「自分は社会不適合者だ」と悩んでいる人にとっては、勇気を与えるものになっているかとも思う。

 それが私にとって、博士号取得後も好待遇に恵まれない日々が続いていたとしても、続けて自分の信じる研究に邁進せよ!と励ましてくれる心の支えとなっている。

 また、自分の研究業績を増やそうとして、努力を惜しまないことは決して悪いことではない。しかし、業績を稼ごうとするあまり、自分が学部生あるいは修士課程において抱いていたあの頃の初心、つまりは自分が心の底から楽しいと感じ、「これを研究したい!その道の研究者になりたい!」と考え、ワクワクしながら研究に勤しんでいたあの頃の気持ちを押し殺して、自分の本心を偽って研究をしてしまっているのではなかろうか?たしかに、研究者として生計を立てていくためには、それなりの自己欺瞞も必要ではあろう。

 しかし、自分が心の底から楽しいと感じ、自分なりに仕上げていった自分の研究成果が、 時として驚きとともに、人々から賞賛されることだってあったりする。

 たとえば、ドラえもんを生み出した日本の漫画家藤子・F・不二雄もその一人であったのではなかろうか、と私は考える。

 藤子・F・不二雄は『オバケの Q 太郎』で人気を博し、一躍有名となったことで、子供向け雑誌の編集者から数多くの作品制作の依頼が彼のもとに舞い降りた。しかし、次作の 『21 えもん』や『ウメ星デンカ』はヒットに恵まれることはなかった。彼の中に焦りが生 じる。「子供ウケするような漫画を新しく書かなくては…」。そうした強いプレッシャーが 彼を襲い、何事も手をつけることができなくなってしまった。

 しかし、青年誌『ビッグコミック』の編集者から「子供向けの漫画じゃなくてもいいから、自分が今描きたいと思う漫画を描いてほしい」という依頼があった。彼はしぶしぶながらもその依頼を引き受け、『ビッグコミック』で「ミノタウロスの皿」という大人向け 13 の短編漫画を描いた。結果は「絵柄は子供向けなのに、背筋に寒気が走るほどの社会風刺の効いた作品に仕上がっている!」という評価を得た。これをきっかけに「作者も楽しみ、 読者も楽しむ」をモットーに、彼は自分の描きたい漫画を描き続けた。その結果、あの名 作『ドラえもん』が誕生したのであった。

 このように、社会の常識・ニーズから外れたようなものが、結果として、人々の心を突き動かし、感動を与えるものになったりすることもあるのである。

 ヤスパースも『哲学』の中で、自分らしい生き方をしている本来の自分、すなわち「実存」とは、業績をあげることによって社会から賞賛されることを目的として生きている自分、すなわち「業績的自我 Leistungsich」などではない、と語る。つまり、いくら見かけ上の研究業績が優れていたとしても、それで真の研究を成し得た人物であるとは言えないということである。ヤスパースが言いたいのは、業績ばかりを気にしてしまい、八方塞がりの状態に陥っているのであれば、初心に帰って、「自分が心の底から大事だと思っていること、またそれが自分の心を躍らせ、自分の人生の糧として成長させてくれるもの、それはいったい何だったのか?」を振り返り、それを自分の研究生活の原動力にすべきであるということである。

 とはいえ、まとめに入るが、博士号取得後の私の人生は決して平坦なものではなく、万事安泰といった暮らしが保証されているわけではない。事実、現時点で専任教員の地位を得て、安定した収入を得られる見込みなどはない。

 しかし、博士号取得者には「トランスファラブル能力」が備わっている、とも言われる。 その能力とは、どんな環境に身を置かれても、適応し生き抜いていく力があるということ を意味する。それは、博士論文を執筆する過程を通して身についた、文章を精読し分析する力、新しい視点を提供する想像力などを発揮することで手に入れることのできた能力で あると言えよう。

 実際に私は、日本史や世界史などは専門ではないにせよ、それでも地歴公民科の教員としての業務を全うすることができ、それでなんとか今生き延びているのである。

 博士号を取得したからと言って、安穏と事を構えて受け身になってはいけない。いくら待っていても自分の人生の道は開かれないのである。むしろ、自分たちの手でその道を切り開いていき、生き抜いていかなければならない。それが博士号取得後の人生において重要なことなのである。

 とはいえ、もし読者の皆さんが博士号を取得することができたのであれば、それは自分で自分の道を切り開くことのできる、その能力を持っているという証を手に入れたということにもなるのである。

 そうであれば、心配せずとも、おのずと自分の人生の道をしっかりと地を踏みしめて歩いていくことができるであろう。どう生きるか、また人生成功するか否か、そのすべてはあなた方次第なのである。

 まさにTHE BLUE HEARTSの曲名のとおり、「未来は僕等の手の中」。



中村元紀さん、力強くも心強いメッセージがあるエッセイをありがとうございました。

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