社会と教育投資

「社会の発展には社会全体としての生産性を高めることが重要であり、その成否を分ける主要なカギは教育の充実である。」と、マクロ投資で世界最高レベルの成果を上げ続けている投資家のレイ・ダリオは述べる。
「社会のどこに優れた活躍をする人がいるか分からない。才覚を伸ばす機会を与え、その活躍を促す仕組みがあることは、社会が才能にアクセス出来ることにもなり、社会の強靭さを高めることになる」と述べ、アメリカン・ドリームが叶えられる社会基盤をもたらそうと奮闘しているのだ。
(例えばラリー・サマーズとの対談

教育投資は、その効果を短い期間では感じることが困難である。どれくらい投資すればどれくらい成果を得られるのか、その見積もりを計算することは難しい。
おそらくマッキンゼーの精鋭を集めて作るであろう大企業の、せいぜい5年程度の中期経営計画さえどれだけ外しているかを見れば、子どもたちに経済的な成果にどう結びつくのか分からない教育を与え、数十年先に花ひらくことを予め計算しておこうなどという話は夢物語にしか思えない。
レイ・ダリオも上記対談の中で「どれくらいの教育投資が追加でいると思うのか?」と問われてつまっていて、確かに現代の予算策定プロセスをみれば必要な問いだと思うのだが、これを責めるのは酷であろう。

社会の教育投資は、それでは、歴史のなかではどう為されてきたのか?

日本で言えば、1872年、明治政府が太政官令として学制を発令したのがその本格的な教育投資の幕開けである。
学制の序文に、当時の文部省は次の願いを込めている。
「…自今以後一般ノ人民華士族農工商及婦女子必ス邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」
およそいかなる身分の者も、これ以後不学の者が無い社会にすると宣言したのだ。具体的には全国に、8大学・256中学・53,760小学校を設立すると発令を出した。
この実現について、19世紀生まれの実業家である小林一三さん(阪急阪神グループ創業者)が後に地域振興の文脈でインタビューで述べているのは、「各地に学校運営のお金があるかどうかも分からない中、明治政府はとにかく学校を作るのだと号令をかけ、地域のお金持ちに協力を求めたり、僧侶を教師に仕立ててとにかく進めていった」ということだ。
学制自体が理想主義すぎると反発され、後に法改正を繰り返したあたり、実際には大変な苦難があったのだと思われるが、その後の近代国家日本を形作る政策の一つとして、明治政府は大きく賭けて成功を収めたのだと思う。

現代社会において、教育は制度として行き渡る状態が達成され、人々の教育機会への課題はむしろ、今の話題で言えば宗教二世問題など、よりプライベートな領域になっているのかもしれない。そうであれば、それらの課題に向き合うことで、全員に教育の機会を与え、社会が広く才能にアクセス出来る状態を追求すべきだと思う。

これから、日本は金融収縮と地政学起因のインフレを前に、財政的に厳しい時代を迎えるだろう。ただ苦しいなかでも、これからの時代に向けた「大きな賭け」の流れを絶やさず、長く続く繁栄を守ってほしいと思う。

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