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本屋に入れなかった

ここ最近は時間の余裕がない。なぜこんなにも忙しいのかわからない。いや本当は分かっている、労働や引越しの諸々作業に追われていることを。
今だけだと分かっているからこそ、踏ん張れる。

今日は空き時間ができたため、久しぶりに駅前の本屋へ寄った。空き時間の本屋、いつぶりだろうか。久しぶりに新刊の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、手書きのポップアップが添えられた新作を見る。

AIがテーマの時代を問う作品、ドラマにもなった話題作、人気の漫画のアクスタ付き新刊。文学賞受賞作。

苦しくなって、すぐに外へ出た。

それぞれの本から「お前はここで何をしているんだ」と問い続けられているようだったのだ。

「なぜ書かない」
「そんなことで本当にいいと思っているのか」
「こちらはちゃんと『書かれたもの』だぞ」

本当はどれも、自分が自分に向けて語りかけている声だ。でも今の私は浅ましいので、それを本のせいにしている。

この作家もあの作家も、毎日ちゃんと自室で書いている。おそらく今日、いまこの時も書いているのだろう。一方の私はお金を惜しんで公園のベンチに座り、次のバイトまでの時間をダラダラとスマホを見ながら過ごしている。

ここ最近は週に一回書ければマシな方だ。まったく書けていない。書きたいことも書くべきこともたくさんあるのに、「書く前にしなければいけないこと」、つまりは事務や庶務に忙殺されている。今の私には、書く余裕もなければ読む体力もない。何も残っていない。

こんな意味不明なことで毎日悩んだり忙しくしたりしている自分が情けない。何をしているんだ、と思う。もっと本を読まないと、もっと書かないと。本を買う心とお金の双方に呑気でいられた学生時代の記憶は、すでに幻想的なイメージと化してしまった。

いつか執筆家として、文章を書いて暮らしたいと思っている。

でも本当に余裕がないとき、私は本屋に入れなかった。そんな時間も体力も、発想すらなかった。このことは、もう二度と取れないシミのように私の体に沈み込んでいく気がする。

執筆家にとって、自著が本になるというのはめでたいことである。それを夢に見ている人もたくさんいる。私も密かにそのときを妄想してみたりする。

けれど、いつか自分の書いた本が本屋に並んだとして、誰が買いにこれるのだろう。どんな人が買いにきてくれるのだろう。時間とお金と体力のある、結局は「元気」な人しかいないのではないか。

私が言葉を届けたい人に、きちんと届けられるのだろうか。その人が手を伸ばしやすい場所に、私は言葉を置くことができるのだろうか。

今の私が本屋に入れないということは、そういう意味でも辛い。

私がこれからしようとしていることは、ある意味で特権的なことであるとはっきりと告げられたようなものだからだ。今さらそんなことに気づいてしまった。

しかしこんなに欲張って、いったいどこの誰に何を書きたいと思っているのだろうか。

たくさんの恥と自責と自意識にまみれて、もはや前が見えない。

数週間前、雨に打たれた金木犀たち

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差詰レオニー
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