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note村のみなさん、今日は5/18「ことばの日」なんだそうです。

少なくとも世間一般的に見て「言葉」というものにそこそこの愛情を注いでいるであろうnote村のみなさん、今日は我らが言葉の日なんだそうですよ。
ご機嫌いかがですか。

考えるのが趣味なので、言葉とわたしの関係性について何度か考えてみたことがある。色々ぐりぐり考えてみた結果わかったこと、それは「私にとって、他者に何かを伝える手段に言葉である必然性はほとんどない」ということだった。

むかしから、それこそ文章を書くようになってから、言葉以外でコミュニケーションを取ろうとする人にとても興味があった。

私は言葉を選んだけど、なぜ彼らは言葉じゃないのか?
なぜ、もっとも近くにあるはずの言語という手段を差し置いて、それ以外の音楽やダンスや絵やスポーツで何かを伝えようとするのだろう?

生活の中で最も身近にあるはずの言葉に素通りしているように見えた彼らが、不思議で仕方がなかった。

色々見た/聞いた結果、言葉のことをあまり信用していない人は音楽の道に進んでいるということがわかってきた。そして溢れる感情の処理についていけない人はたいてい溢れる感情を自然と「身体」で伝えようとすることもなんとなくわかってきた。ダンスや、演劇や、衝動的に走る・笑う・泣くなど。 

で、言葉を重用する私は?というと、結局、「人よりもひとりでいる時間が長くて、頭の中の思考がぐるぐる回りまくっているから」というだけだった。
執筆は意外と思考を用いる作業だ。それが運よく功を奏して、思考フェチな私の頭の中に浮遊している言葉をそのまま吐き出せばあら不思議、文章ができましたというたったそれだけの話なのだ。言葉の語感が好きで〜とか、作文が小さい頃から得意で〜という、小説家的なかっこいい理由ではない。単純に、思考する癖が文章を書くときの作業に役に立った、ただそれだけなのだ。

そう言うと嫌味たらしく聞こえてしまうだろうか。
でも本当にそうなのだ。私の軸はおそらく思考にあるのであって、言葉にはない。
だからもしかすると、思考の結果を何か別の手段でもっと表せるのなら、私は言葉人間をすぐに引退すると思う。要は頭の中の思考を、何かしらの形で外に吐き出せればいいのだから。

だから言葉の並びとかリズムとかより、私はいつも言葉が言わんとしていることの意味そのものに、ものすごく興味がある。見ているのはいつも意味しかない。
この人は結局世界の何を言おうとしているのか、意味しているものは私の過去の経験で言うと何に当てはまるか、言っていることにオリジナリティはあるか、ユーモアがあるか......。私が言葉を読んで気にしているのはいつもそれだけ。
だから、「ここで改行すると女の子っぽくないなあ」とか「ここでこの単語を出すのは間が悪いなあ」とか、そういうことを気にして書ける人のほうがすごいと思っている。まあ、それが私の永遠の師匠、吉本ばなな姉貴なんだけれど。そういう意味でも、私の頭や書き方はひどくコラムよりだと思う。こういうエッセイ(これもエッセイなんかじゃないですけどね!!毎回エッセイを書こうとするとこうしてズレていくのはなんでなんですかね!!おこ)は本当に向いていない。

でもね。それでも、私は言葉がいちばん好きなのです。

言葉がもたらしてくれる感動、体験、心の動きの総体......。言葉の効力そのものが、ぜんぶ好きなのです。

例えばnoteの、フォロワーが10人くらいで私と同じくらい友達のいなさそうな()同年代が書いたなんでもない日記を読んだ時。なんて事のない文章を読んで「ああ...!!!顔も名前も分からぬいとおしい人間が...!今日も頑張って生きている...!」と思った時に無限に溢れ出てくる人類愛とか、はたまた、雑誌の、流れるように読み進められる文章を読んだ時の満腹感。そういう総体がぜんぶ好き。他の手段で得られる全ての体験よりも好き。
ちなみに、私はお笑い芸人の動画で笑うよりも、文章で笑う方が好きです。読んだだけで笑える文章って、なんであんなにおもしろいんだろう。音も色もないのに、私にはとても豊かな体験になる。

けっきょく言葉の日にグッとくるエッセイをひとつも書けない私だが、とりあえず言葉の力をとても信じている、ということをこの日を借りて言いたい。
言葉は人の顔色や人生そのものを変えてしまうと思っているし、確かに言葉は万能ではないけれど、それでも人間の思いはギリギリまで伝えることができると思う。言葉は決して無力ではないし、魂をこめればこめるほど、嘘をつかなければつかないほど、純度が高まって人の心を動かすものになると思っている。
私はそんな言葉の力をこれからも信じていたいし、これからも言葉のすぐそばにいたい。たまに言葉の無力さに立ち尽くしながらも、言葉ができる限界の限界まで何かを伝えることを諦めないでいたい。それは言葉を用いて何かを届けることを生業とする者としての矜持なのだ。

...言葉の日に、ライターとして何か気の利いたエッセイでも書きたいと思って振り返ってみたけど、これしか書けなかった。なんなんだ、全く。
ちなみに好きな言葉は「やらぬ悔いよりやった悔い」です。

お詫びに、(昨日も出てきた)私が世界でいちばん好きなバンドの「言葉がなかったら」という曲をはっつけておきます。私はこの曲を聴いて、このバンドにいよいよ一生ついて行こうと思ったのでした。

私が彼らを好きなのはまさしく、音楽家でありながら言葉のちからを諦めていないこと、厳密にいえば言葉の頼りなさに直面しているのだけど、それでもなお言葉のちからを諦めきっていない、ナメていないところにあります。歌詞をじっくり読めばわかります。
言葉のちからと言葉の無力さに苛まれ、もがき、それでもなお音楽家として最大限言葉に向き合おうとしていること。その真面目な姿勢が私はとても好きなのです。
言葉のちからを普遍的なノスタルジーを帯びた音楽と両立させていることに、大変感心しています。

言葉がなかったら
こんなことで悩まずに
すべてをぬくもりで
伝えられたのだろうか

あいつやあなたにも言ってみたかったこと
いざ目の前にすると口をつぐんでしまうこと

言ったってやらなけりゃ意味がないと言う人
見返すためにもとりあえず言おうかな

言わなきゃな

言葉に直したら
嘘になってしまうとしても
ギリギリのところまで
表していたいんだ


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差詰レオニー
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