【指揮者メモ】楽理分析における分析と総合
【楽理分析における分析と総合】
昨日、日本において特にドイツもので解説が動機に集中し過ぎているという投稿をしたけれど、動機操作はあくまで作曲法のごく一部。それだけなら十二音音楽やセリー音楽と大して変わらない。
コードばかり書くのも同類のやり方。コードは便利だが横の繋がりを語ってくれない。クラシックには横の関係性を語る「(機能)和声法」があり、当時の作曲家は懸命に学んだ。
動機やコードのようなミクロの要素が、和声法や対位法というマクロの要素と見事なまでに有機的に絡まる。しかもそれが個人の生き様や当時の思想哲学とも重なっていくことが私にとってクラシックの魅力だ。それが如実にあらわれるのが西洋独特の機能和声で書かれた作品であり、それを進歩の名のもと破壊・軽蔑した後の「芸術音楽」に私個人はあまり興味がない。
いずれにせよ、動機やコードはミクロ要素。分解ばかりしても、木を見て森を見ずになる。デカルト風にいえば、枚挙と総合が足りない。拙著にも書いたが、デカルトに惚れ込んだラモーが機能和声の土台を作ったのは歴史の必然に感じる。
指揮者メモ 伊藤玲阿奈・玲於奈・レオナ
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