空襲の街で見える景色「堕落論」と「Humankind 希望の歴史」
近い将来、日本は中国と戦争するかもしれない。
空襲警報のサイレンが鳴り、爆撃機のエンジン音が遠くから聞こえてくる。
市民は地下シェルターや防空壕へ避難し、商店街や公園で自衛隊の対空ミサイルが空を向く。レーダーがくるくると回転しているところへ、中国の対レーダー無人機が自爆してくる。
やがて絨毯爆撃が続く。
一通り攻撃が止むと、穴蔵から人々が出てくる。
店も家も自衛隊のミサイルも、全てが破壊されている。
あなたは、この後、どうするか? あるいは、あなたの隣人は何をするだろうか?
パニックになり、まるでゾンビドラマ『ウォーキングデッド』のような暴力と混乱が支配する世界になるのだろうか。
実は、戦争の記録を見る限り、そうはならないようだ。
『堕落論』での美しさと堕落
第二次世界大戦中、空襲下の東京に、坂口安吾はいた。『堕落論』によると、戦争中の東京には爆弾の恐怖はあっても、美しさが咲き誇っていたらしい。
「近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は噓のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。」
—『堕落論』坂口 安吾著
https://a.co/gIgawDB
坂口安吾は、空襲の危険が隣り合わせだった日本を美しかったと評価している。
同時に、ここでいう美しさを、作られた幻想であると捉えている。
「戦争未亡人を挑発堕落させてはいけない」という理由で、未亡人の恋愛小説が禁止されたのも、移り変わりやすい女心を矯正して、美しい一途な婦人達を作るためだった。
武士道が考案されたのも、日本人の「昨日の敵は今日の友という楽天性」を抑制し、国家に忠誠を誓う美しい戦士達を生み出すためだった。
そして図らずも、大空襲という偉大な破壊の前で、市民は美しい運命の子となった。
爆撃直後、煙の立ち登る世界で、若い娘達は爽やかな笑顔で日向ぼっこしたり、焼け跡から瀬戸物を掘り出していた。
人々は運命に従順となり、死体が転がっていても冷静に列を組んで避難していた。
市民は放心や虚脱することはなく、若い娘達は時に笑顔で、親子もまるでピクニックするがごとくのんびりと燃える家屋や煙が立ち登る東京で過ごしていた。
偉大な破壊によって、彼らは美しく落ち着いた市民になった。
坂口安吾は、亡き夫を想い続ける戦争未亡人も、武士道のため特攻した英霊達も、空襲があってもパニックにならず落ち着き払った市民達も、美しいが幻想だと断じた。非人間的だとさえ述べた。
敗戦後、日本人が美しい幻想から人間に戻った時、堕落がまた始まった。
「戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。」
—『堕落論』坂口 安吾著
https://a.co/3n0ehYu
だが堕落は悪ではない。人間になり、堕落しなければ、人は救われないというのだ。
また堕落し続けられるほど我々は強くなく、どこかでまた美しき幻想になろうと試みはじめるのも人間だと坂口安吾は結論している。
『堕落論』において、美しさは非人間的な理想で、堕落が人間の本来だと評されている。
『Humankind 希望の歴史』が示す人間の特質
大戦中に空襲を受けたのは日本だけではない。イギリスとドイツも互いに街を爆撃した。
その当時の市民の様子が『Hunankind 希望の歴史(上) 人類が善き未来をつくるための18章』の冒頭に描かれている。
ロンドン大空襲があった後も、子供達は通りで遊び、夫婦はキッチンでお茶を呑みながら「怖がったところで、どうしようもないでしょう?」とアメリカのジャーナリストに答えた。
空襲で破壊されたデパートが、「営業中。本日から入り口を拡張しました」とユーモアあふれるポスターを掲示し(15頁)
(省略)
互いに助け合い、労働党か保守党か、裕福か貧しいか、といった違いは気にしなかった(16頁)
『Hunankind 希望の歴史(上) 人類が善き未来をつくるための18章』ルトガー・ブレグマン 訳 野中香方子 株式会社文藝春秋 2021年
ドイツ側も同様で、国民は互いに助け合い、瓦礫の中から被災者を助けた。
そして、市民の戦意を挫くために行われた街への空襲は、全くの逆効果で「爆撃を受けた二一の町や都市では、爆撃されなかった一四都市に比べて、生産量が急速に増えた」(20頁)というのだ。
数ヶ月にわたる空爆は、人間の悪いところを引き出すどころか、むしろ善性を活発化させた。
ここで、ルトガー・ブレグマンは人間の特質を善だとしている。
危機に瀕すると、普段文明によってスポイルされて見えなくなっていたホモ・サピエンスの本能的善性が表に出てくるののだと述べている。
美しき善なる人々は幻想か本質か
『堕落論』で美しいとされる人々と、『Humankind 希望の歴史』で人間の特質が現出したとされる人々は、まさに同じだ。
空襲という偉大なる破壊のもと、人々はパニックにならず、むしろ協力的でユーモアに溢れた。
文明以前の人間は本来、平等で仲間思いで平和的だったので、文明が取り剥がされて生身の人類になると、その善性が出てくるのだという説が、ルトガー・ブレグマンの本からは読み取れる。
そういう意味では、坂口安吾が本来の人間と表現する堕落した状態は、ルトガー・ブレグマンに言わせれば文明後の利己的人類の姿であり、本当のホモ・サピエンスはむしろ、美しき幻想の方となり、対立する人間観だとわかる。
ただし文明を逆戻りすることはもはや不可能なのは事実で、文明と一心同体となったホモ・サピエンスが人間というならば、坂口安吾の言説もうなづける。
空襲なしに美しき人間になれたら
私たちは文明によって利己的で神経症な堕落した人間になっている。
これが人間だとも言える。
しかし、坂口安吾が言う通り、このままでは、我々は耐えられない。
だから、また本来の平和で平等なホモ・サピエンスになりたいと願う。
しかしその時、空襲のような偉大なる破壊が必須条件だとしたら、悲劇だ。
偉大なる破壊なしに、文明の殻を破り捨て、本来の幻想のように美しきホモ・サピエンスになる選択肢も、未来にあればと思う。
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