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最終課題 小説『さよなら、』

 目の前が真っ赤な幕に覆われている。赤いネイルのついた小さい足では、木がぎしぎしと音を立てている。僕は場ミリの一つもないその床の一番後ろに立っていた。上手にも、下手にも、人は一人もいない。幕の向こうからのみ、人の気配を感じる。ざわざわ、がやがや、声がすると思えば、生物の強い熱気すら感じる。
開演ブザーが鳴り響いて、緞帳が上がる。ブザーの重く、唸るような音に頭が揺られた。私は、役もセリフも知らない舞台に立たされている。背中にドロッとした汗が流れる。完全に幕が上がって、照明が一斉にこちらを向いた。眩しくて、手のひらで瞼を隠す。照明の暑さで汗が増した。身体から水分が無くなって、口からははくはくと息を吸う音が鳴るだけだった。観客の目、目、目、全部がこちらを向いている。その圧に押されて、後ずさりをした。舞台がぎしぎしと鳴って僕を避難した後、元々一番後ろにいたものだから舞台から足を滑らせて落下した。落下したという事実だけを理解できた。枯れた口からは悲鳴の一つも出ず、掴もうとして伸ばした手からは、握りしめ過ぎて爪がめり込んだ血が見えただけであった。


ざぶんと音が鳴って、ピンク色の海に大きなしぶきが上がった。鼓動がうるさくなっているのを感じて、自分の身体がまだ動いていると実感した。飛び込んでしまったことに慌てて、その鮮やかなピンクを吸い込んでしまった。息ができなくて苦しいかと思いきや、このピンクは普通の海水とは違うようだ。一度に大きくピンクを吸い込むと気持ちよくなる。吸い込んだピンクは吐いた時、黒い靄のようなものに変わっていた。何だか暖かい。このピンク色の海は暖かくて、穏やかだ。大の字で浮かんでいる自分は何だか滑稽で面白くなってきた。もう一度吸い込んで吐き出す。先ほどより靄の色が薄くなっている。ゆっくりその気持ちよさを堪能していたら、先程までピンクだった海の色が、真っ青のいつもの海になってしまった。何だか手先が痺れてきて、身体が重くなってきた。海にどんどん沈んでいく。さっきまで気持ち良かったピンクも変わってしまったならただの海水でお腹の中で重くなって、沈みを助けるだけだった。頭からゆっくり沈んでいく。最後に吐いたものは真っ白の泡だった。


 背中が、もっと言うと背骨が痛い。じんじん、ヒリヒリする。眉間にしわを寄せながらあたりを見渡すと、壁一面に書籍が埋まったような場所だった。天井を探すが見当たらない。きっと塔のような場所なのだろう。真ん中の螺旋階段がそれを象徴するかのようだった。ゆっくり立ち上がってから、始めて気付いた。自分のものではない服を着ている。少し袖の長いフリルのブラウスと黒いズボンに赤いショートブーツ、明らかに私のものでは無い。自分の着ている服を観察していると螺旋階段から誰かが私を眺めていた。
「縺顔岼隕壹a縺ァ縺吶°?」
目の前の私が着ているような上質な服を着た青年は何かをこちらに向かって発しているようだったが、何を伝えたいのか分からなかった。
「霑代¥縺ョ豬懊〒蛟偵l縺ヲ縺?i縺」縺励c縺」縺溘?縺ァ縲√%縺薙∪縺ァ騾」繧後※縺阪∪縺励◆縲ゅ♀諤ェ謌代?縺ゅj縺セ縺帙s縺具シ」
青年はそんな私を無視して話を続ける。何か質問をされたようだけれど、そもそも私には答える言葉も持ち合わせていない。何かを発そうとしても今までどうやって物を伝えていたのかわからなくなるだけで、青年には何も伝わらなかった。喉がぴたっと閉じてしまってもう何もでない。
「繧ゅ@縺九@縺ヲ縲∬ィ闡峨�蟄舌〒縺吶°��」
青年は何かを言いながら私の右手を取った。ひっくり返したり、近づけたりした後、納得したように笑顔を見せて螺旋階段の上に登っていた。青年は何かを探しているようすを見せて、また、螺旋階段から降りてきた。手には紋章のついた古書と変わった形の灯油ランプを私に手渡した。少し大きいそれを抱えた私の肩に青年は手を置いて、私の後ろにあるドアを指さした。そして、青年はそのドアに近づき、ドアを開け、その向こうの白い光の靄に私を案内し、手招いた。不思議と恐怖はない。むしろ、何故か高揚している。私は火のついたランプをかざして、足を光に染めた。



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