何やってるんだろう病
こんにちは。
ロックダウンが延長しそうな気がしていて、シンプルに「もうええって、疲れたって」と思ってる松木蓮です。
#12月からずっとロックダウン
#サウナに行きたい
#髪を切りたい
▼何やってるんだろう病
「何やってるんだろう」って思うことってありませんか?休日に一日中YouTubeを見漁ってしまい、夕暮れ時に「あれ、今日何してたっけ?」って思うこととか、画面越しで活躍する同い年の人たちを見て「私は何をしてるんだろう」って思ったり。画面越しで輝けば輝くほど自分は小さく感じられるかもしれません。毎日毎日同じ道を歩き、同じ場所に行き、同じことをする、そんなモノトーンな生活にハッと鳥肌が立って「あれ、このままじゃヤバイ」と危惧することもあるかもしれません。同窓会であった旧友が自分よりも昇進していて、結婚もしていて人生楽しそう!そういう人は大きく見えるかもしれませんね。
何かにつけて「何やってるんだろう」って思うことってよくあると思っていて、これは日本人によくあることだと思うんですよね。いくつか例を挙げたように「何やってるんだろう」って思うということは誰かと比較した時に、ようやく自分の輪郭が見え、その時「あれ、自分やばいかも」と我に返ります。
そう、だから比較すると「何やっているんだろう病」が発症してしまいます。
ただ、比較すると必ず「何やっているんだろう」と思うかというとそうではなくて、比較対象が自分より上の人という潜在意識がある条件のもとでこの病気は発症します。自分の意識の中で勝手にこの人は下だと見ている時、その人と比較するとどうなるか?
「俺イケてんじゃん病」が発症します。あの人はまだあんなところを歩いてるけど、僕はもうここを走ってるぞ。そんな風に優越感を感じてしまいます。
つまり、ここからわかるのは誰かと比較すると「何やってるんだろう病」「俺イケてんじゃん病」のどちらかが発症して、それぞれ「劣等感」「優越感」という言葉に置き換えられ、それに浸ることになります。
▼僕たちはなぜ比較をする?
先ほど日本人は比較をしがちだと書きましたが、この理由を考えてみることにします。もちろん、これは僕の肌感でしかなくて、海外の色んな国籍の人と話したりしてきた僕の経験に基づく感覚です。日本人以外でも比較する人は沢山いると思います。
一番大きい理由として、島国であると考えました。これは時々言われることで、島国だからこそ同質性が高く他者と差別化を図るために比較をする、というロジックだと思います。僕もそうだと思ったのですが、これを当てはめてしまうと他の島国の方々はどうなのか?
オーストラリアに住む人は他人を気にしすぎなのか?ハワイの人々はのんびりしているような気がするけど、もしかたら内心比較しまくってる?マダガスカル在住者は実は世界一周りを気にする人達?
多分違うと思います。「いやいや、これは日本だけに当てはまるんだよ。ね、日本だけ特別なの!」という謎の特例法を採用してしまうのはあまりにも乱暴で都合が良すぎるので、あまり好きにはなれません。
人類学者の丸山真男は『日本文化のかくれた形』で、日本人の基本的な態度として「キョロキョロすること」を指摘しています。これは他人と比較することとの相関性は不明ですが、一つ国民性をあげるならそうと頷けるかもしれません。
じゃあ何がために僕たちは比較するんだろう?
教育ではないですか?何万回も擦り倒されたことではありますが、旧態依然とした日本の教育システムによって人は他者と比較することになったと言われます。明治維新後学制が発布され、現在に続く教育制度の基礎が築かれました。世界に対して日本のプレゼンスを知らしめるために、指示に従う従順で質の高い人間を量産することに傾倒していたのです。それは巡り巡って高度経済成長期に上手くはまって、このシステムこそ正しいのだ!と結果が証明したかのように見えました。
ここで日本の教育制度の功罪を書き連ねることは避けますが、どうやら「縦並び、右倣え、数値化」を基調とする教育文化にこそ、比較する基盤を形成してきたと言っても良さそうな気がします。
20年後、30年後の日本を支えるミライの担い手は”きっと”来るべき教育改革で多様性を重んじる、従来とは真逆の教育を施されることなので、そこについてとやかくいう必要はないと思います。これで一件落着、かと思われますが重要なところを見逃しています。
僕たちです。
▼良い処方箋はあるのか?
ミライの担い手は多様性を重んじる寛大な人材に育っていくとて、今を生きる人は狭く盲目で前時代的な思考を持っています。彼らが死に絶えるのを待つのにはあまりに長すぎます。
心の処方箋として何か良い方法はないのかを考えてみます。
まず、大前提として「比較」という行為が悪いものなのか?を議論する必要があると思います。「比較するから辛いんだよ」とよく聞きますが(僕もいうことありますが)、そんな簡単な話じゃありませんよね。
これはライオンに手を差し伸べておきながら「噛むな!」と言っているようなもので、基本的には「そういうもの」として受け入れることが一旦必要じゃないかなと思います(ライオンは目の前に手があったらそりゃ噛みつきます)。「比較することは悪いことじゃない」と言い聞かせてあげるのが良いでしょう。
ポイントは比較した後にどう気持ちが動くかであって、その気持ちのバランスをよく考えてあげることです。先ほど、比較した時の感情として「劣等感」「優越感」があると書きました。文字面では説明しきれていないと思うのですが、「劣等感は上を見ている証拠なので、自己の上方修正に切り替わる可能性がある」「優越感は下を見ている証拠なので、自己の下方修正に切り替わる可能性がある」とするとどうでしょうか。あくまでも可能性なのですが、「何やってるんだろう病」になったとしても上向きに頑張ろうという伸び代となってアクセルを踏むきっかけを与えてくれるかもしれません。
ゴルフ界の寵児タイガー・ウッズはライバルが球を打つ時、「入れ!」と心で叫んでいたそうです。普通だったら「外れろ!」だと思うのですが、「入れ!」を彼は選びます。そして、そうすることで正の(上向きの)戦いが始まると説明します。裏返せば、そこで失敗を願ってしまっては負の戦いが始まるということです。尤もな考え方だなと思います。
一方で、「俺イケてんじゃん病」の場合はどうか。僕はこういう瞬間も大切だと思っています。この時、その人の心理状態はプラスに働くからです。優越感を感じているわけなので。ただし、これは麻薬と同じように中毒性が強く、優越感が恒常化してしまうと逆効果になります。
有名なお笑い芸人を頭に浮かべてください。彼らは全く売れていない後輩芸人とよく一緒にいると言います。なぜか?(言い方に棘がありますが)おそらく自分より下のやつがいるんだ、という確認作業のためです。傷跡を残す、という言葉があるくらいテレビ界は熾烈な戦いがあり、一瞬でも油断するものなら気づけば自分の席が獲られている、というわかりやすい弱肉強食の世界。
そんな環境に24時間身を置いてしまっては流石に危険です。時々、自分のペースで呼吸できる環境を自ら創り出すことで、心のエネルギーを蓄積するのだと思います。
比較するのを辞めたい時はどうすれば良いのか?これは簡単で難しいですが、自分の中に強く図太い芯を持つことです。他人に切り倒されないような大木を自己に植え付けさえすれば、比較することがなくなるどころか他者を気にすらしなくなります。
自分は何を求めているのかを明確化し、自分は何がしたいのか?好きなことは何なのかをミリ単位で深掘りすれば、寝食を忘れて没頭することが出てきます。他人を忘れるどころか時間を忘れることになるので、一つ見つかりさえすれば心は安定すると思います。
時々、その大木が正しい方向に向かって伸びているのかを確認する意味も込めて、周りをキョロキョロしてみても良いかもしれませんね。
▼鏡を持つということ
そろそろまとめに入ります。周りを気にしすぎてしまうあまり、2つの病に悩まされることがあります。「何やってるんだろう病」と「俺イケてんじゃん病」です。どちらも他者を自己に重ねることで起きる差分です。自分では収まりきらない場合には「何やってるんだろう病」が発症し、自分の領域内で対応できる場合は「俺イケてんじゃん病」が発症します。
「何やってるんだろう病」の場合は、劣等感を感じますがそこまでネガティブに捉えすぎる必要はなくて、これは成長の兆しでもあります。自分は小さい人間だと不安になりしゃがんだ分、高く跳べる可能性が上がります。
「俺イケてんじゃん病」の場合は、優越感に浸るので気持ちが良いと思います。時々浸ることは良いと思いますが、常に浸っていては自分を下方修正することになり、結果として精神安定上良くない状況を招きます。
「何やってるんだろう病」も「俺イケてんじゃん病」の場合も、そのバランスが重要で、比較すること自体は悪いことではないのです。
万が一、他人と比較する自分が好きになれない場合には「自分と比較するように設計」してみてください。昨日の自分と今日の自分、明日の自分は、と内なる比較をすると余計な感情が生まれません。そのためには強固な自己が必要で、何が好きで、何を求めていて、何をしたいのか、を明確にして、そこに向かって走って行けるよう丁寧にレースをしいてあげることです。
比較とは鏡のようなもので、他者と比べたとしても自分を写しだすものです。使いようによってはプラスに働くはずです。
「何やってるんだろう病」も「俺イケてんじゃん病」も、必ずしも悪いものではなくて、味方にしてしまえば背中を押してくれる鏡になると思うのです。
ps. 他者を見下すのを肯定していて、それは如何なものか、僕もそう思います。理想は切磋琢磨して互いに高あえることです。が、なかなかそうもいきません。比較するときも人によって判断基準が異なるので、自分なりの基準の中で比較を行う範囲内では問題ないと思います。それは、人間性という根幹ではなくまた別の部分を判断材料としているので。理想を追いすぎるといつか疲れてしまうので、現実的な方法で努めていくことが大切だと感じます。