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「同じ」を教える、「同じ」を教わる(言葉の中の言葉・03)

 前回の「「やま」に「山」を当てる、「山」に「やま」を当てる(言葉の中の言葉・02)」で書いた文章から話を進めます。

     *

「似ている」と「同じ」は似ています。

 両者は、よく「似ている」ので混同します。私なんか、しょっちゅう混同します。

 つい同一視してしまうのです。もしそうだとすれば、人が「似ている」を基本とする印象の世界で生きているから、ではないでしょうか。 


*はかる、わける、わかる


 以上が、前回に書いた文章です。

 今回は、その続きのお話をします。

「はかる」という言葉とそのイメージについて、私は次のように考えています。

*はかる:人が最も苦手とする行為。人は、「はかる」ための道具・器械・機械・システム(広義の「はかり」)をつくり、そうした物たちに、外部委託(外注)している。計測、計数、計算、計量、測定、観測。とりわけ機械やシステムは高速かつ正確に「はかる」。誤差やエラーが起きることもある。 

 この「はかる」という行為は何のためにするのでしょう? 「同じ」かどうかを決めるためだと私は思います。

     *

 では、なぜ「同じ」かどうかを決める必要があるのかと言うと、「わける」ためです。

*わける:人が得意な行為。ヒトの歴史は「わける」の連続。分割、分離、別離、分断、分類、区別、差別、分岐、分別、分解、分節、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。言葉と文字の基本的な身振りは「わける」。つかう道具は、縄と刃物とペン。線を引き、切り、しるす。

 正確に「わける」ためには正確に「はかる」ための正確な「はかり」が必要だということですから、「わかりやすい」話だと思います。

「わかりやすい」が出たところで、「わかる」についてもお話しします。

     *

「わかる」と「わける」は似ています。

 両者は、よく「似ている」ので混同します。私は、まれに混同します。

 つい同じに見えてしまうのです。もしそうだとすれば、人が「似ている」を基本とする印象の世界で生きているから、ではないでしょうか。 

     *

 ただし、「わかる」と「わける」が似ているのは字面だけだと思います。「わかる」と「わける」は文字にすると「か」と「け」だけの違いですが、両者をしょっちゅう混同したり、ましてや同一視する人がいるとは考えにくいです。

 ぱっと見が似ているので見間違えることは、よくあるにちがいありません。

 かといって、両者の違いを説明しろと言われると、私なんかは困ってしまいます。

「何と言ったらいいか……ほら、違うじゃない? わかるはわかる、わけるはわけるでしょ? わかる?」

 そんなふうに、しどろもどろになりそうです。実は「わかる」は「わかりにくい」のです。ひょっとすると、人は「わかる」が「わからない」のかもしれません。

*わかる:人が自分は得意だと思っている行為。「わける」は見えるが、「わかる」は見えない。見えないから、その実態も成果も確認できない。お思いと同様に共有できない。行為や行動と言うよりも観念。一人ひとりのいだく思い込み。解釈、判断、判定、判決、理解、誤解、解脱、悟り。

     *

 人は「わかる」が「わからない」のかもしれませんが、「わかる」は見えないために、「わかった」と言っても、それが本当に「わかった」のかどうかは「わかりません」。

「わかった」という発言は嘘である可能性が高いということです。

 このように「わかる」は、見て「わからない」ために、人はしょっちゅう、

「わかった?」「わかったよ」
「わかった?」「うーん、わかんない」

みたいな会話をします。確認をしているわけです。

 そこが「わける」との違いです。

「わけた?」「わけたよ」
「わけた?」「うーん、わけてない」

 こんな会話を聞いたことがありますか? 「わける」は「わかる」と違って見れば「わかる」ので、いちいち確認する必要がないから、そんな会話はめったにしないのです。

「わける」と「わかる」の違いが、「わかって」いただけたでしょうか?

     *

 とはいえ、「わかる」は曲者です。「わかる」は「わける」と区別できても、それは区別ですから、「わけた」だけなのです。

「わかる」は人には見えないし「わからない」、おそらく自分が「わかっているか」どうかも、「わからない」のではないのではないか。そんな気がします。

*「同じ」かどうかを決める


 話を戻します。

 なぜ「同じ」かどうかを決める必要があるのかと言うと、「わける」ためです。

 分割、分離、別離、分断、分類、区別、差別、分岐、分別、分解、分節、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。

 以上の文字列から、「わける」ことがいかに大切かがおわかりいただけるのではないでしょうか?

 計測、計数、計算、計量、測定、観測。

 以上の文字列から、「わける」ためには「はかり」が必要なことがおわかりいただけるのではないでしょうか?

 お金、ポイント、土地、ご飯、パン、おかず、お菓子――こうしたものを「わける」ためには、かなり正確な「はかり」が必要な場合もあれば、勘や慣や感といった「目分量」くらいで済ませられる場合もあるでしょう。

 とにかく「はかる」必要があります。

     *

 ある量、長さ、重さを「はかる」ためには「はかり」をつかえば事足ります。「はかる」さいの基本は、「同じ」かどうかです。「はかり」や単位は同じでなければなりません。

 しかも数値化できなければなりません。数字と数値は、「同じ」かどうかを保証するいわば担保なのです。

 でも、世の中というか世界には、数値化できないものもあります。

     *

 数値化できないものが「同じ」かどうかは、決めるしかありません。どうやって決めるかというと、「見る」「聞く」「嗅ぐ」「味わう」「触れる」という例の「五感+第六感」で決めるしかありません。

 簡単に言うと、知覚機能をつかった印象とかイメージで決めるのです。

「五感+第六感」の中でいちばん幅をきかせているのは「見る」です。Seeing is believing. 見ることは信じること。百聞は一見にしかず。

(※ここでは立ち入る余裕がなくて残念なのですが、文字が「見る」ものであることは実に興味深い事実です。破格の待遇と言っていいくらい、文字はヒトに優遇されています。ヒトは何でも文字にしようとし、文字として残しています。)

 生物の分類で考えてみましょう。昔は見て、分類したようです。手足の数、頭の形、根の形、葉の形、「はね・羽・翅」の有無、どこで生活しているか、何を食べているか、どんなふうに子をつくるか……。

 動植物をごっちゃにした言い方で申し訳ありません。とにかく、

「見て分かる」=「見る+分かる」=「分ける」

だったのです。人の思い込みでしかない「分かる」と「分ける」が同義だった時代が長かったと言えそうです。 

 現在では生物の分類法の主流は「見て分ける」からDNAなど、広義の「はかり」をもちいてはかった結果(もちろん数値化できます)で判断する、つまり決めているようです。

 私は話でしか知りません。教わっただけです。誰が教えてくれたかも知らないのです。知識や情報とはそういうものです。

「見る」(五感の一つ)で「分ける」 ⇒ 「はかり」(人工物)で「はかる」 ⇒ その結果を「見る」(五感の一つ)で「分ける」 

 大切なのは、「同じ」かどうかを「はかり」ではかった結果を、人は「似ている」の世界から「見ている」ことだと思います。人は「はかり」ではないし、「はかり」になれないのです。はからずも。

「見て」「分けている」ことは確かでしょう。でも、「見て」「分かっている」かどうかは見えないとしか言えません。

 そこで大きな役割をするのが「決める」です。

「決める」と「決まる」からです。それが「決まり」になります。「決まり」は法でありルールであり掟なのです。

 習慣、慣習、制度でもあります。「しきたり・仕来り・為来り」とも言います。「しきたり」とは「「してきたこと」の意」らしいです(広辞苑)。

     *

 何かと別の何かが同じかどうかを「決める」というのは、さき ほど挙げた

分割、分離、別離、分断、分類、区別、差別、分岐、分別、分解、分節、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分

という文字列と重なってきます。

 きな臭いですよね。「分ける」は「切り分ける」であり、その結果「別れ」があることが見て取れます。

「分ける」ことで血が流れることさえあります。仁義なき戦いにもなりそうです。

 そんな熾烈(しれつ)な争いと戦いおよび闘いの中で幅をきかすのは何でしょう? 声の大きさ、そして最終的には腕力だと考えられます。

 要するに、印象とイメージと人の都合と力関係で決めているわけです。何を決めるって、「同じ」かどうかです。

     *

「同じ」かどうかは、人の印象とイメージと都合と力関係で決められているのです。

 極端な例を挙げるとわかりやすいかもしれません。

「黒いカラスは白いサギである」
「御意」、「おっしゃるとおりです」、「至言でございます」、「そういえば、以前もそうおっしゃっていましたね」、「異議なし」

(引用したのは、「「同じ」に憧れる「似ている」」という記事です。よろしければお読みください。本記事で述べていることが詳しく書かれています。)

 こんなふうに決まる集団、団体、組織、自治体、国家があります。心当たりはありませんか? 人にとって、いちばん小さな人間関係の単位であるカップルや友人同士やパートナー同士や家族でも、おおいにありえる話だと私は思います。

 黒いカラスが白いサギと「同じ」になってしまう――こういう事態が増えていませんか? というか、ヒトの世界って、太古、大昔からこんな感じではなかったでしょうか。

 決める ⇒ 決まる ⇒ 決まり ⇒ しきたり(ずっと「してきたこと」) 

 前例踏襲。

*「同じ」かどうかを教える、教わる


 まとめます。

「同じ」かどうかは、決められた知識であり情報なのです(それが個人的な印象である「似ている」との大きな違いです)。自分で決めたものではなく、誰かが決めたものを引用している、複製しているとも言えます。

 印刷物、放送、ネット――こうした物やシステムや場を通じて、知識が複製され引用されています。私の好きな言い方をすると、複製の複製、引用の引用です。

 オリジナル(原物、実物、起源)をたどることが難しかったり不可能であったりする、つまり、たどることは現実的ではないのです。だから、誰もオリジナル(原物、実物、起源)をたどろうとはしません。

 信じるしかないわけですが、信じる根拠は「みんなが言っているから」、「みんなが信じているから」、「教科書に書いてあるから」、「権威ある文書に書いてあるから」、「信じないといい成績を取れないから」、「信じないと生きづらいから」、「信じないと叱られるから」といったところでしょうか。

「同じ」かどうかを組織的かつ体系的に教える場として一般的なのは、学校です。学校教育とか公教育と呼ばれているもの、あるいは場で、人は「同じ」かどうかを教わるのであり、教えるのだと言えます。

*文字は文字ではない


 話をがらりと変えます。というか、ここまででお話ししたことを別の視点から述べてみます。

 前もって言っておきますが、かなり飛躍します。眉に唾をつけてお読みください。今のは半分冗談です。私なりに真面目に書いていますので、強引な書き方をしていますが、どうかご理解願います。

     *

 まず、前提となる話からします。以下は私がよくつかうフレーズです。

目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。 

 今回は二番目のフレーズはあまり関係ありません。関係あるのは一番目のフレーズです。

 そのフレーズを言い換えると、「文字は文字ではない」(「文字を文字ととして意識しない」)ということです。文字は文字を文字として見なくてなんぼ、という感じです。

 要するに、文字を文字として見てはいけないのです。「見て見ない振りをする」とも言えるでしょう。

「文字を文字として見ていては読めない」からにほかなりません。「文字は見るものではなく読むもの」なのです。私はそうは思いませんけど。

     *

 これまで何度も記事の中で書いた文章を引用します。

 猫にはぜんぜん似ていないのに猫であるとされて、猫の代わりをつとめ、猫を装い、猫の振りをし、猫を演じている。そんな不思議な存在であり、私たちにとって最も身近な複製でもあるもの――。
 これが文字です。
 簡単に言うと、「猫」という文字は猫というものとは違うし、似てもいないという意味です。なのに「猫」は猫なのです。

「似てもいない」ものに「当てた」もので「同じ」とする。

 この「同じ」を教える場が学校なのです。その「当てる」に根拠があるかどうか、妥当であるかどうかは問われません。不問なのです。

 つまり、文字を文字として見てはいけないのです。文字を文字として見ると、「「似てもいない」ものに「当てた」もので「同じ」とする」なんて言いかねないからです。

     *

 いずれにせよ、話を進めます。

 学校で何を教えるかと言えば、文字なのです。文字を教えないと次に進めないからにほかなりません。そもそも教科書は印刷物であり、文字で書かれています。タブレットをもちいる場合でも、その画面には文字が書かれています。

 絵、図、写真などの画像は二の次で、大切なのは文字です。

 念を押しますが、文字とは、「似てもいない」ものに「当てた」もので「同じ」とする――のことです。

     *

 学校に通わないと体系的に文字を学ぶことができません。体系的に「「似てもいない」ものに「当てた」もので「同じ」とする」が身に付かないのです。

 あいうえお表と学年ごとに決められた数の漢字を教えるだけではありません。文字の習得は知識と情報の習得と同時におこなわれます。両者を切り離すことはできないのです。

     *

 話が長くなりそうなので、はしょります。飛躍させていただきます。

 学校で教える知識と情報とは、たとえば次のようなことを「同じ」だと考えることに基づいています。以下の「である」は「と同じである」と読みかえてください。

「猫」は猫である。
「海」は海である。
「アメリカ大陸」はアメリカ大陸である。
「宇宙」は宇宙である。

「やま」と「山」と「ヤマ」と「yama」は同じである。
「山」と「mountain」と場合によっては「hill」は同じである。

「存在」と「そんざい」と「ソンザイ」は同じである。
「無」と「む」と「ム」は同じである。

『存在と無』(日)と『L'Être et le néant』(仏)と『Being and Nothingness』(英)と『Das Sein und das Nichts』(独)と『El ser y la nada』(西)は同じである。

「である」は「と同じである」と読みかえていただけましたか?

     *

 という話なのです。

 飛躍して申し訳ありません。

 でも、そんな感じで教わってきませんでしたか? とはいえ、あくまでも私の印象とイメージなので、人それぞれとも言えそうです。

 ここまでお付き合いをいただだき、どうもありがとうございます。

*言葉の中の言葉


 話に熱中して、忘れるところでした。この記事は、「言葉の中の言葉」の第二回目なのです。それにふさわしい終わり方をします。

     *

 仕切り直します。

 私は、「やま」と「山」と「ヤマ」と「yama」は同じであるとは思いません。というか、そう感じたことがありません。

 みなさんは、「レモン」と「lemon」と「檸檬」は同じだと感じますか? 「思う」か、でも「考える」か、でもなく「感じる」か?――です。

 僕はレモンなら思いきり囓ってみたい。lemon ならギュッとこの手で握って絞ってみたい。檸檬ならただ眺めていたい。 

     *

 くり返します。

 みなさんは、「レモン」と「lemon」と「檸檬」は同じだと感じますか?

 レモンというものでもなく、lemon というものでもなく、檸檬というものでもなく、「レモン」、「lemon」、「檸檬」です。

 私は学校(理科の授業と英語の授業と国語の授業)で同じだと教わりました。辞書(国語辞典と英和辞典)も、それらが「同じ」であると誘導する作りになっています。

 目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる――そう信じたいです。

 文学とは「同じ」に抗うことなのかもしれません。そこが学問との違いだという気がします。

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