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二つの「たった一つのもの」
目の前にいる猫、目の前にある愛読している本――そんなふうに誰にでも掛け替えのない存在があると思います。
存在と言いましたが、人、生き物、無生物、全部ひっくるめての話です。
掛け替えのない「たった一つのもの」が、「猫」とか「本」と呼ばれているし、文字にもされています。
掛け替えのない「たった一つのもの」に、一本化された「たった一つのもの」が当てられている。そんなふうにも言えそうです。
これは言葉をつかう以上、致し方ないことだと思います。
言葉は誰にとっても生まれたときに既にあったものだからです。それを誰もが真似て学んできたのですから。
言葉は誰にとっても借りたもの、借り物、仮のもの、とりあえず(仮そめ)のものだと言えます。
*
「猫」は猫ではなく、猫に似てもいないのに、猫としてまかり通っている。
「猫」という文字は猫ではなく、猫に似てもいないのに、猫としてまかり通っている。
「猫」という文字や言葉(音声)は、現実にある掛け替えのない一つひとつの存在にくらべると、空っぽの記号なのだとも言えるでしょう。
具象に抽象を、有に無を、色に空を、実に虚を、当てているのですから。
「ねこ・neko」という音声は、発せられたとたんに、泡のように消えるではないですか。
「猫」という文字は、紙や薄い画面に載っかるくらいですから、薄っぺらいものにちがいありません。
*
言葉は誰にとっても借り物だというのは、言葉は共有物だと言い換えることができます。
みんなが、各人の掛け替えのないものを、みんなが口にする言葉で呼んでいる。
自分が口にするものをみんなで口にして共有するのですから、歯ブラシやマスクを共有するのと同じです。
冗談はさておき、掛け替えのない「たった一つのもの」に、一本化された「たった一つのもの」が当てられているという言葉のありように、ささやかながらも抗う方法があります。
前回の「音声として立ち現れるもの、文字として立ち現れるもの」という記事で取りあげた、唱歌「故郷(ふるさと)」(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞)の歌詞をご覧ください。
この歌詞に、掛け替えのない「たった一つのもの」に、一本化された「たった一つのもの」が当てられていることを回避するための方法が、言葉のありうようとして立ち現れているのです。
兎追いしかの山
小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷
如何にいます父母
恙なしや友がき
雨に風につけても
思い出ずる故郷
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方法は二つあります。
一つは、歌詞の冒頭に反復されている「かの」です。
「かの」はたった二語で二音ですが、表現が凝縮された詩では看過できない役割をになうことがあります。
一本化された「山」と「川」に「かの」をかぶせることによって、自分にとって掛け替えのない「かの山」と「かの川」へと転じる。冒頭の二行にはそんな技巧が感じられます。
技巧というと語弊がありますが、時間的にも空間的にも隔たった掛け替えのないものへの思いが込められているという言い方もできるでしょう。まさに「巧まずして巧む」という感じです。
「かの」は「あの」ですが、「彼の」とも書けます。「彼岸(ひがん)」の「彼」です。はるかかなた、はるか向こうというイメージでしょうか。
「かの山」、そして「かの川」で終わる行に続けて「夢は今もめぐりて」が来ます。「彼の」と「夢」が、隔たりを共通項にして呼応する展開の仕方が見事で、私は好きです。
そう言えば、「この」は「此の」とも書けます。同様に「ここ」は「此処」とも書け、「彼岸」の対極である「此岸(しがん)」の「此」でもあります。
夢は、ある意味彼岸です。「あの世」なのです。夢は毎日訪れる「向こうの世界」だと私は思っています。リハーサルとも言えるでしょう。
話が逸れそうになってきたので、前に進めます。
*
もう一つは、二番の出だしにある「父母」です。
「如何にいます父母」という体言止めは、呼び掛けにも読めます。呼び掛けと取ると、固有名詞な用法だと言えそうです。
人や生き物や無生物を固有名詞で呼ぶことは、相手や対称を掛け替えのないものとして、呼び掛ける、さらには話し掛けることに通じます。
もっとも、固有名詞と言っても万能ではなく、同名や同姓同名がありますけど、言葉が誰にとっても借り物であり仮そめのものでもある以上、贅沢は言えません。
こころざしをはたして
いつの日にか帰らん
山はあおき故郷
水は清き故郷
この歌詞の「父母」だけでなく、「故郷(ふるさと)」も固有名詞的につかわれているように私は思います。
一番で一回、二番で一回、三番で二回と、連呼されているからです。英語なら大文字になる感じです。
英語と言えば、別の歌を思いだしました。
◆
思いだしたのは、サイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel)の「Homeward Bound」です。邦題が「早く家へ帰りたい」。かつて故郷を離れていた学生時代の自分にすっと心が飛びます。
私はポール・サイモンの詩が好きです。「巧まずして巧む」ような機知を感じることがしばしばあります。
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タイトルの homeward bound というフレーズが出てくるところを見てみましょう。
And every stranger's face I see
Reminds me that I long to be
Homeward bound
I wish I was
homeward bound
long to be という切望を表わす動詞と、 I wish I was という現実ではない状態を述べる仮定法過去が、「故郷(ふるさと)」の「夢は今もめぐりて」と通じる気がします。切なくて好きな箇所です。
細かいことですが、to be と was に、今は I am homeward bound では「ない」事実があらわれています。Homeward bound というタイトルのこの詩は、今自分は駅にいると歌い出しながら、 homeward bound では「ない」とくり返し歌っているのです。
*
「である」と「でない」との隔たりが、この詩のテーマだと言えるかもしれません。その隔たりのテーマが railway station という場所と呼応するかのようです。
駅や空港は、空間的な隔たり(距離)、時間的な隔たり(記憶)、現実と夢想との隔たり(乖離)などが重なって、そこにある場ではないでしょうか。
Homeward bound は詩として優れていると思います。歌詞全体を見るとわかりますが、随所で緩やかに韻を踏んでもいます。音読して快いということでしょう。
Home, where my thought's escaping
Home, where my music's playing
Home, where my love lies waiting
呼び掛けるようにして歌う Home に固有名詞を感じます。歌詞を文字で見ると、行頭なので大文字になっていますが、そうでなくても固有名詞的な用法ではないかという意味です。
私には、Home というところが Mom に聞こえてなりません。
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ふるさと、くに、いなか、さと、うち、いえ――と同じように普通名詞と考えれば特定の場所を指しているわけではありませんが、だからこそ、各人が自分だけの思いを重ねることができる言葉なのではないでしょうか。
誰もが持っているにちがいない掛け替えのない「たった一つの言葉」なのです。
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