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言葉の中には言葉がある(言葉の中の言葉・05)

「言葉の中に言葉がある(言葉の中の言葉・01)」
「「やま」に「山」を当てる、「山」に「やま」を当てる(言葉の中の言葉・02)」
「「同じ」を教える、「同じ」を教わる(言葉の中の言葉・03)」
「こころとこころをあわせる(言葉の中の言葉・04)」

 今回は、連載のタイトルである「言葉の中の言葉」をまとめてみます。

 今回のタイトルは「言葉の中には言葉がある(言葉の中の言葉・05)」です。「言葉の中に言葉がある(言葉の中の言葉・01)」と似ていますが、ちょっとだけ違います。

 話が抽象論にならないように、できるだけ具体的にお話しするように心がげます。頭で理解するよりも、なるべく体感していただこうという意味です。


1)言葉の中に言葉がある。


言葉(言語)の中に言葉(二つの言語の系統)がある。

 日本語という言葉の中には、大別して大和言葉系と漢語系の二つの系統があるように、ある言葉(言語)の中には、言葉(複数の言語の系統や系列)があると言えそうです。

2)言葉の中に言葉がある。


言葉の中に言葉(話・フレーズ・詞・辞・語・言語)がある。

 1)の結果として、言葉という言葉(音声)を耳にしたり、言葉という文字を目にしていると、言葉という音や文字に重なったり被さったりするような形で、別の言葉が浮んでくることがあります。

 別の言葉とは、たとえば、「話、フレーズ、言の葉、話ぶり、口のきき方、語り、言ったこと、言い方、表現、詞、辞、語、言語」などです。ほかにもあるにちがいありません。これは個人差があり、人それぞれです。

 1)は知識や情報であり、今述べていることは体感的な現象だという言い方もできるでしょう。私は、こっちのほうがはるかに大切だと考えています。

 言葉は、単なる知識や情報としてあるというよりも、むしろ体感や身体感覚としてあるからです。

「大和言葉系と漢語系の二つの系統」なんてもったいぶった言い方は、知らなくても言葉はつかえます。現に誰もが、そうやってつかっているのではないでしょうか。

 私は日常生活をしながら、その「二つの系統」を「二つの系統」だなんて言葉で意識しながらつかってはいません。

3)言葉の中に言葉がある。


言葉の中に言葉(ことば・コトバ・kotoba)がある。

 この場合の、言葉は文字のことです。文字の表記とも言えます。話し言葉、書き言葉、文字という意味で、漠然と「言葉」という言葉を当てることがあります。

「その言葉はちゃんと、かたかなに直しておいてね」とか、「彼の言葉を聞いていると堅苦しいね」みたいにです。

 言葉は「当てる」ものですが、その当て方には確固とした決まりがあるわけではありません。

 そもそも、一度に一つの言葉しか当てられないのです。一度に一つの言葉しか発音できないし、書けないという言い方もできます。

     *

 話は逸れますが、

そもそも(そもそもが多くてごめんなさい)、無数の物や事や現象にたった一つの言葉(音の連なり)を当てる、というのが、言葉のありようなのでしょう。

 それでいて、それとほぼ同じ「無数の物や事や現象にたった一つの言葉(音の連なり)を当てる」ことが、また別の言葉でくり返されるのです。つまり、言葉がダブるというか増えるのです。ひょっとすると「殖える」かもしれません。

 土台無理という言葉がありますが、言葉の土台には無理があるようです。

 でも、その土台無理があるからこそ、「言葉の中にある言葉」とか「言葉のもつれやこじれやねじれやよじれ」という現象を楽しむことができるとも考えられます。

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 音の連なりに文字や文字の連なりを当てる場合もほぼ同じでしょう。

 たとえば、拗れて拗れて拗ねる、みたいに。「こじれる」と「ねじれる」と「すねる」という音の連なりに同じ「拗」という文字を当ててるというか、「拗」(文字)に「こじれる」と「ねじれる」と「すねる」という音の連なりを、なぜか当てているのです。

 なぜか――です。

「当てる」は「なぜか」なのです。

 かつて「当てる」と「決めた」人や人たちはいざ知らず、真似て学ぶ側からすると、「なぜか」は「わからない」というか「知らない」という意味です。

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「当てられ」「決められ」「伝えられていく」個々の知識や慣習や制度は、引用の引用(複製の複製)であり、起源なき引用(オリジナルなき複製)なのが現実です。

「伝えられていく」こと(知識や慣習や制度)が「当たり」か「大当たりか」、はたまた「外れ」かどうかは、わかりません。それは、かつて「当てる」と「決めた」人や人たちにも、もちろんわからないでしょう。

(※現在「当てられている」ことは、さかのぼれない過去において、おそらく少数の人が「決めた」ことであり、「当てた」根拠が希薄であったり、あるいは皆無であったりしても、「当てられた」ことが権威や権力によって、知識化や慣習化や制度化という形で強化されると、それがもっともらしい知識や慣習や制度として「伝えられ続ける」ことがあるのではないか。前例踏襲が長く続くと、その前例が「正しいもの」になってしまうというか。「当てられた」ことのローカル性や特殊性や恣意性は、「当てられた」ことが、時代や地域や共同体によってまちまちであることで説明されるのではないか。詳しく言うと、そういう意味です。ややこしい話でごめんなさい。)

     *

 話を戻します。

 こじれてねじれてすねる。

 ところで、「言葉のもつれやこじれやねじれやよじれ」を漢字で書けますか? 私はできません。ペンで書いたこともありません。もっぱらパソコンの文字変換に頼っています。感謝しかありません。

 今の話で、「言葉の中の言葉」を体感していただけたでしょうか? 文字変換のさいにずらりと並ぶ候補を眺めていると、「言葉の中に言葉がある」さまを目の当たりするようで、感謝どころか感動することがあります。

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 話が飛びました。

 日本語の文字の表記では、言葉に、言葉、コトバ、ことば、kotoba というように三通りの文字が当てられるという話でした。

4)言葉の中に言葉がある。


言葉の中に言葉(詞・辞)がある。

 2)で大雑把にお話ししたことを、もう少し詳しく見てみます。「言葉」という言葉を国語辞典で調べると、見出しが「ことば・言葉・詞・辞」となっています。

 私は「詞」と「辞」を「言葉・ことば」と読んだ記憶がありません。でも、そう読むのでしょう。こういうことはよくあります。私たちは常時、辞書を持ち歩いて生きているわけではありませんから、当然です。

 なんだかピンと来ない話になりましたので、別の例で考えてみましょう。

     *

 たとえば、「あう」という言葉を耳にしたり、目にするとき、「合う・会う・逢う・遭う」というふうに頭の中でいくつかの、ずれた「あう」が浮んでくることがあります。

 同様に、「うつす」でも「移す・写す・映す・遷す・撮す」が浮ぶことがあります。とはいえ、これも人それぞれです。

 いずれにせよ、これは、別に漢字が大陸から渡ってきてから生じた語義の違いではなく、もともとそれらの大和言葉(和語)に複数の語義があり、それに、中国語でもちいられている文字である漢字を当てただけのようです。

 まるで、大和言葉である「あう」や「うつす」の中に複数の言葉があるように感じられるという意味で、「言葉の中に言葉がある」と言えるでしょう。

 こういうのは好き嫌いがはっきり分かれそうな話ですね。退屈な方、ごめんなさい。

 私は好きです。病的に好きだという自覚があります。たぶん性格が、もつれてこじれてねじれてよじれているのでしょう。これも自覚があります。

5)言葉の中に言葉がある。


言葉の中に、言葉(口・艸・世・木)がある。

 この場合の言葉は、文字です。特に漢字です。

「言」という漢字に見える「口」の上の部分は「二」という漢字か「ニ」というカタカナと、「=」に見えますが、これは note のこの活字というかフォントで見ているから、そう見えるのであって、漢字の作り(解字とも言います)では、どうなっているのかは漢和辞典で調べるとわかります。

 私が、noteでの設定を明朝体に変えると、「言」とは異なるデザインになるはずです。

 とにもかくにも、漢字を見ているとその漢字の中に別の漢字が見えることがあります。これも「言葉の中に言葉がある」とか「言葉の中の言葉」と言えるでしょう。というか、ここではそういうことにします。

6)言葉の中に言葉がある。

 
・言葉の中に言葉(word・phrase・expression・speech・term・language・tongue・dialect)がある。

 和英辞典では「ことば・言葉」という見出し語の項に、上のような英語の単語が挙げてあります。和仏、和独、和露、日中、日韓、和西……でも同様の記載があるはずです。

 和英辞典では発見もあります。ある和英辞典にあった「ことば・言葉」の日本語訳として「dialect」(方言)が挙げられていたのを目にし、深くうなずいたのを覚えています。確かにその通りなのです。

 なお、上で見た、フレーズ、スピーチ、タームなどが、いわゆるカタカナ語として日本語になる場合もあるのは、みなさんがご存じの通りです。こうやって言葉は豊かになっていくのでしょう。

「純血」主義では言葉(言語)は痩せ細ります。英語なんて結果的にきわめて豊かな言語になっています。人びとが移動し出会った結果です。

 英語という言語では、「言葉の中に言葉」が豊富にあり、しかも、もつれてこじれまくっているからこそ、ジェイムズ・ジョイスは『フィネガンズ・ウェイク』(Finnegans Wake)が構想できたのであり、執筆できたのだと私は信じています。

 また、同じくらい豊穣で、こじれてもつれまくった日本語があるからこそ、柳瀬尚紀はそれを日本語訳できたにちがいありません。

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 話を辞典に戻しますが、英和辞典では和英辞典と逆のことが起きています。当たり前ですけど。

 いずれにせよ、ある言葉を見出しにして別の言語の言葉が並んでいるさまは感動的です。美しく感じる場合もあります。

 見出しの言葉がタイトルである詩のように感じることも珍しくありません。

 私は英和辞典でよく figure を訪ねます。詩に出会えるからです。興味のある方は、ぜひ下の記事を訪ねてみてください。

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 たとえば、英和辞典に載っているのは、見出し語の意味ではありません。意味は目に見えないものです。意味とは、おそらく人の頭の中だけにあるものです。

 英和辞典に載っているのは、見出し語の意味ではなく、見出し語の日本語訳です。日本語での単語・語・言葉なのです。

 逆に考えてみましょう。和英辞典で「ことば・言葉」という見出し語の項で挙げられている言葉は意味でしょうか?

 ことば・言葉・word・phrase・expression・speech・term・language・dialect……。

 私に見えるのは意味ではなく英単語です。私は意味を見たことがありません。

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 話が長くなりそうなので、今回はここでやめておきます。体調がよくないので、書き下ろしの記事はなるべく短くするように心がけています。

 このところ、体調を崩しているフォロワーさんが多いようです。おたがいに、無理をしないように気をつけましょう。

*言葉の中には言葉がある。


 今回は何をしたのかをまとめます。

・言葉の中には言葉がある。⇒ 抽象的な理屈・理解する
・言葉の中に言葉がある。 ⇒ 具体的な事実・体感する

「言葉の中には言葉がある」という理屈を体感するには、「言葉の中に言葉がある」という具体的な事実を目で見るのがいちばんだと言えそうです。

 なお、「当てる」は「なぜか」なのです――という話は忘れてください。ややこしい話をして、ごめんなさい。

 なぜか何かに何かを当てるという癖があるために、ヒト(人というよりもヒトです)は、拗れて拗れて拗ねる(こじれてねじれてすねる)どころか、目も当てられない事態を招くことがある――これだけは肝に銘じておきたいものです。
 
 ヒトは何かに何かを当てずにはいられない生き物のようです。何に何を当てているのかも知らずに。

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