交尾の出てこない『交尾』
今回は、「共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)」の続きです。
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梶井基次郎の掌編『交尾』には交尾が出てきません。
「私は猫の交尾を見たことがあるがそれはこんなものではない。」とあるのですから、この作品で描かれている二匹の白猫のさまは交尾を描写したものではないと考えられます。
『交尾』は「その一」と「その二」に分かれていて、上の文章は「その一」から引用した段落です。
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「その二」は次の文で始まります。
そして次の段落で終わるのです。なお、「彼」と「彼ら」は河鹿を指します。
「その一」にも「その二」にも交尾の直接的な描写は出てきません。描写されているのは交尾に至る前のいとなみばかりなのです。
交尾の出てこない『交尾』という作品の読後感は「爽やか」です。ごく短い作品なのでぜひ読んでいただきたいと思います。
私は『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)でこの作品を読んでいるのですが、以下の青空文庫でも読めます。
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『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)は、「作品」と「習作」と「遺稿」に分かれています。三部を比較すると、重複する内容や細部の作品と断片があり、実に興味深いです。
梶井の場合には、完成した作品だけでなく、草稿や未完成の断片を読むのが醍醐味だとも言えるでしょう。私はそれを楽しんでいます。
上で引用した『交尾』は「作品」に収められているのですが、「遺稿」にも『交尾』というタイトルの文章があります。
二つの『交尾』には重複が見られませんが、前者の最後には「(昭和五年十二月稿 *『作品』昭和六年一月号)」、後者には「(昭和五年十二月)」という、おそらく出版社が付けた断り書きが添えられています。
二編の『交尾』がある事情については調べれば分かるにちがいありません。夭逝した梶井基次郎の研究者は多いようです。
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後者の『交尾』は、次の文で始まります。段落の第一文です。
第三段落の第一文を以下に引用します。
とはいうものの、それに続く文章には交尾を観察して克明に描写したと言えるほどの長めの細部はなく、状況を説明する文から、すっぽんの「顔貌」についての戯作めいた余談になり、その余談の中に織り込まれ付け足される形の短い文があるだけです。
・p.513「平生はあまり立留らない槽なのだがひょいと覗いて見ると、二匹のすっぽんがもつれあっている。そのまま私はその前に立留ってしまった。」:状況の説明。
・p.513「その彼が今や、膝栗毛の主人公の指に噛みついた角質の歯でもって雌の頸にかじりついているのである。」:余談を引き継ぐ形で描写が織り込まれている。
上の何気なく挿入された一文が私にはもっとも直接的な交尾の描写に見えます。短いだけにぞくっとするほどリアルなのです。
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ここも鳥肌が立つくらいにどきりとする箇所です。「私」の目の前で雌の頸に雄が齧りついているというすっぽんの様子が、人間の食事に重ねられているからです。
いわば小動物の性事とヒトの食事とが二重写しにされている感があります。
言い換えると、同じ種同士のいとなみに、異種であるヒトとすっぽんの「食う・食われる」を重ねているのです。
ヒトと動物の接触や交流を描くさいに、こうした異化的な手法を用いるのが梶井基次郎はとてもうまいと思います。
『愛撫』における「猫の手の化粧道具」と、同じく『愛撫』のラストで人間の眼球が猫の肉球によって「愛撫」される描写が好例です(「共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)」をご参照願います)。
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すっぽんは水槽に入れられて飼育されたり鑑賞される対象にもなると同時に、食材として食われる対象にもなります。ヒトと動物との関係には綺麗事では済まされない側面がありますが、「私」の眼差しはリアリストのそれです。
動植物に対する真摯な人間の眼差しはリアリストのものにならざるを得ない、というのが私の意見です。人間も動植物だからにほかなりません。
これに続く文章を引用します。
この「人と一緒には」の「人」は「ヒト」ではないでしょうか? 他人という意味の「人」ではなく、人類や人間やホモ・サピエンスという意味での人です。
直前の「動物的関心」と「人間的関心」という対照から考えて私はそう感じます。
いま述べた点については「人というよりもヒト(する/される・03)」で詳しく書いているので、よろしければお読みください。
いずれにせよ、「人間的関心」と対照されている「私の専心な動物的関心」というフレーズには、話者が自分を動物の側に置いている身振りが感じられます。注目すべき点です。
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引用を続けます。
「私」が槽にいる二匹のすっぽんに見入っていると、「田舎の親爺さん」が近づいてきます。
そして、「親爺さん」が隣の槽に行ってしまった後に別の人が来ます。以下は、後者の『交尾』の「ラスト」です。
「若い男」は「蹌々踉々」(そうそうろうろう)つまり、よろめいているのですから酔っているのでしょう。
この書き方からすると「連れ」は女性だとほのめかしている、と考えられます。そうであれば、ここは見逃すことのできない細部です。
人間の男女がすっぽんの雌雄のいとなみをガラス越しに眺めるという図になるからであり、よく考えると、ある意味グロテスクなのです。広義の異化だと思います。
前者の『交尾』にくらべると、後者の『交尾』はヒトの本質を突いているだけに、読後感は正直言って「爽やかな」ものではありませんでした。
ヒトはヒトのヒト的な部分を見たくないのかもしれません。ヒトのヒト的なところに、ヒトが動物でもあることが透けて見えるからでしょう。
だから、人は人事(じんじ)をまるで他人事(ひとごと)のように眺めるのです。