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まばらにまだらに『杳子』を読む(01)


見る、見える、見えない


杳子(ようこ)は深い谷底に一人で坐っていた。

(『杳子』p.8『杳子・妻隠』新潮文庫所収・丸括弧内はルビ、以下同じ)

 古井由吉作『杳子』の冒頭です。

 深い谷底の河原でケルンを見つめる若い女を、下山途中の若い男が見つけて山を下りるようにと手助けする。

 このように簡潔に要約することも可能な『杳子』の「一」という章なのですが、「見つける」「見つめる」とはいっても、男が女をどこでどのように見つけたか、女がどのように積みあげられた石を見ていたかに、作品の冒頭できわめて多くの言葉が費やされているのに驚かされます。

 この章にかぎらず、この作品では「見る」・「見られる」と、「見る」・「見える」・「見つめる」・「見留める(認める)」という対比がテーマではないかと思われるくらい、「見る」という行為のさまざまなありようが、「彼」の視点から詳細に記述されているのです。

「見る」が必ずしも「見える」ではないし、「見つめる」が「見留める(認める)」だとはかぎらない。さらにいうと、「見る」と「見られる」のさかいが曖昧であるような印象を私は受けます。

 下山途中だった若い男女の出会いとその後の都会での交際をつづったストーリーとして読むにはもったいない、刺激的な細部に満ちている小説なのです。先入観――紋切り型の通念といってもかまいません――をもって読みすすんでいると、行きづまって途方に暮れる。そういう意味での刺激に満ちているのです。

自然物、人工物


 たとえば、ケルンです。

 ケルンとは人が積みあげた石ですから、その意味では人工物でしょう。私は登山の経験がないために、ケルンについて本で調べたりネットで検索すると、ケルンが単なる道しるべではないとわかります。ケルンを作る行為について批判的な意見も散見するのです。

河原には岩屑(いわくず)が流れにそって累々(るいるい)と横たわって静まりかえり、重くのしかかる暗さの底に、灰色の明るさを漂わせていた。その明るさの中で、杳子は平たい岩の上に軀(からだ)を小さくこごめて坐り、すぐ目の前の、誰かが戯(たわむ)れに積んでいった低いケルンを見つめていた。(pp.8-9)

 引用箇所の「累々」で私は「死屍累々」を連想するのですが、「河原」という言葉が選ばれていることで、賽の河原を連想する人もいるにちがいありません。

 また、「誰かが戯(たわむ)れに積んでいった」が私には気になります。「誰かが」「積んでいった」と断定されているのですから、「戯れに」に何らかの含みがあるはずですが、私にはその意味合いがつかめません。

 いずれにせよ、上の引用箇所は、この小説全体の視点的人物である「彼」から見た、低いケルンを見つめる杳子の様子の記述です。ところが、つぎに引用する伝聞による杳子の言葉では、彼女はこのケルンをしるしだと受けとめていなかったようなのです。

 いつのまにか杳子は目の前に積まれた小さな岩の塔をしげしげと眺めていた。それが道しるべだということは、その時、彼女はすこしも意識しなかったという。
(p.19)

 私が初めてこの小説を読んだとき、人のいたしるしであるはずのケルンをまるで金縛りにあったように凝視する杳子の様子の描写と、そのうずくまる杳子をしばらく遠巻きに見ているだけの若い男の行動の描写に、首をかしげないではいられませんでした。

 自然界にいて人工物であるしるしをようやく目にして「ああ、よかった!」と安堵している若い女性の様子も、「大丈夫ですか?」と駆けよる若い男の行動も、そこにはないからです。

 以上はこの作品を初めて読んだときの私の感想なのですが、読みながらいだいていく見通しがつぎつぎと裏切られていくような気がしました。そうした見通しは通念にもとづく先入観だといっていいでしょう。いま思いかえすと、いかにも図式的であり、紋切り型のイメージで押しきろうとする強引さを感じます。

(つづく)

#古井由吉 #読書