【レトリック詞】数学の修辞学、数学という修辞学
今回はレトリック詞です。レトリック詞については、以下の記事をご覧ください。
数学の修辞学
寝入り際に宇宙の果てについて考えることがありませんか? どうなっているのだろう。あるところでぷかぷか浮かんでいる自分を想像します。その一メートル先が宇宙の限界だったとしたら?
興奮して眠られなくなることもあります。無限、限りがない、果て、といったイメージを、子どものころからあれこれ想像し、わくわくしたり、びびったり、考えあぐんで眠くなったことが何度もありました。
不思議でならなかったり、気になって仕方がないことが、急に頭に浮かんで目が冴えてしまうことがあります。ややこしいことだから、なるべくかかわらないようにしているのに、とうとつに出てくるのです。
で、「その一メートル先が宇宙の限界だったとしたら?」ですが、その先は「ない」のだとしたら、それは人にとっての「ない」という言葉と、「ない」についてのイメージで、「ない」と決めるしかないという気がします。
つまり、あくまでも言葉とイメージ(レトリックでも詩学でもいいです)の問題ではないでしょうか。その先は人でなくならないと、とらえられないのかもしません(たとえ外注したとしても人がとらえているわけではありません)。
人でなくならないと、とらえられないなんて、いま、しれっと書きましたが、人の外、人外に出るなどと言っても、それもまた言葉とイメージをもちいて騙る(語るではなく)行為でしかないのでしょうね。
まさに果てを目の前にした気分。気づいていないだけで、果てはどこにでも転がっている気がしてきました。世界は果てだらけ、宇宙は果てだらけ。
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数学の微分で、方程式をグラフに描くと曲線になって、その曲線の微小な部分を拡大すると直線に見えるというような話があったように記憶しています。理屈というのには、あまりにも適当でいい加減に感じられて、一種の面白いお話として受けとめてきました。
数学に対して、自分が勝手にいだいているイメージを裏切るほどのテキトーぶりなのです。数学って、こんなに感覚的なものでしたっけ。もっと冷徹かつ緻密で、感覚などという曖昧なものを排除したガチガチの論理で成りたっているものだと勝手にイメージしていました。
いまPCに向かって文章を書きながら、あたりを見回すと、あちこちに曲線が見えます。目の前にもありました。PCのモニターに映し出されている活字は直線と曲線から成りたっています。また、PCの脇に家のカギが置いてあるのですが、それには細い紐と鈴がついています。
紐は細い糸を編んだもののようです。その紐が曲線を描いています。虫眼鏡でその紐の曲線部分を拡大してみると、確かに直線に見えます。ここで、大切なのは、「見える」です。
微分では、方程式をグラフにした場合の曲線を拡大すると「直線になる」とは言っていなかった気がします。あくまでも「直線に見える」だったと記憶しています。
「見える」なんて、すごくテキトーじゃありませんか。それとも、そんなことはないのでしょうか。この種の疑問を質問できる相手がいないので、どうなのかは分かりません。
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連想が働いたらしく、いま思い出しましたが「限りなく0に近づける」というフレーズも頭に残っています。前後関係は忘れました。数学の授業でよく耳にしたり、目にしたフレーズです。
微分だけではなく、数学の違った分野でも見聞きした気がします。物理の授業でのことだったという気もします。
数学も物理も、両方とも苦しくて退屈な授業だったので、混同しているのかもしれません。ですから、記憶違いである可能性は高いです。いずれにせよ、もしも数学にそういう言い回しがあるとするなら、これまた感覚的な気がします。
「限りなく」ですよ。詩や宗教や哲学や広告のコピーみたいじゃありませんか。限りなく透明に近いイエローでホワイトでちょいとブルースみたい。
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また思いだしました。「無限大」って言葉がありました。「∞」なんて立派な記号まであったのも思いだしました(「8」を連想しアラン・ロブ=グリエまで頭に浮かんできます)。ということは「無限小」ってのもあるのかしらん。
これはどう考えても、やっぱり、印象の世界というか感覚的なようです。漠然と考えていたことを、こうやって文章にしてみると、ますます、そうした思いが強くなりました。
そういえば、数学は詩であるなんて何かで読んだ気もしてきました。それとも数学は宗教である、数学は言葉である、数学は哲学である、だったかしら。
いずれにせよ、そうであれば、感覚的であってもいっこうに不思議はないわけですけど。そうでないものを数学に期待していた、このアホがアホであったと分かっただけでも、きょうの収穫と考えましょうか。
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で、思ったのですが、数学はレトリックである、つまり言葉の綾であるなんて言えそうじゃありませんか? なにしろ、数字や言葉や記号や数式(そういえば数式が美しいというレトリックを聞いた覚えがあります)やグラフをもちいています。
要するに「「何か」の代わりに、その「何か」ではないもので済まして澄ましている」という置き換え(すり替えでもいいです)の仕組み、つまり比喩(比喩です)の体系なのです。
まさに隔靴掻痒かっかそうような(ブーツの上から足の痒いところを掻いているようなもどかしい)遠隔操作(遠くにあって手が届かないものの代わりにその辺にあるものをつかう、つまりとっても柄の長い孫の手で遠いところにあるものを突いたり動かしたりする)です。
でも、数学はレトリックだなんていうと数学にケチをつけている気配が濃厚なので、数学は修辞学であるはどうでしょう(ガストン・バシュラールみたいに詩学(la poétique)も捨てがたいです)。「数学という名の修辞学」とか「数学の修辞学」なんてかっこよくないですか?
いずれにせよ、修辞学という言葉は、数学という厳めしい字面とイメージに「限りなく」ぴったりに「見えて」きました。論理ではなく印象の問題なのです。
数学という修辞学
いま、頭にあるのは、ルイス・キャロルとジル・ドゥルーズです。正確に言えば、ルイス・キャロルとジル・ドゥルーズについての私のイメージです。
人は「似ている」を基本とする印象の世界に生きています。その印象を支えてくれるのが「見る・見える」だと思います。
見ただけでは分からない「同じ」かどうかの判断を、人は自分のつくった道具や器械や機械に任せていますが(外部委託とか外注のことです)、それでも、最後には道具や器械や機械の出してくれた結果(数字・文字・グラフ・図・像)を「見る」しかないようです。
「見る」には、「見落とす」「見損じる・見損なう」「見誤る」「見ない」「見えない」が必ず含まれます。「見る・見える」という言葉は、努力目標(標語・スローガン・モットー)なのです。
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「似ている」かどうかの世界で生きている人は、「同じ」かどうかを思いえがく、思いうかべる、そして夢見ることができそうです。じっさい、そうしているようです。それが数学なのかもしれません。あと、物理学もそうなのかもしれません。
数字を見た人はいても(数字は「何か」の代りにある文字であり物です)数学を見た人はいません(数学という文字を見たひとはいますが)。つまり、数学は物ではなく抽象だという意味です。見たことのないものは思うしかなさそうです。
その意味で、数字と数学は、文字と文学に似ています。
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「似ている」は「同じ」に似ています。わくわくするほど似ています。
「同じ」は「似ている」とは違います。がっかりするほど違います。
「同じ」のほうが「似ている」より格が上なのです。かっこいいし整然としているし信頼がおけるし、美しいのです。
そのため、「似ている」を「同じ」と勘違いする人や、「似ている」を「同じ」に代用する人がいます。それが人情というものでしょう。
だからというわけではありませんが、この私も例外ではありません。例外ではない人に私は会ったことがありません。
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似ているを見ながら同じを思う、似ているに同じを夢見る。同じを見ている振りをする。同じを見ているを演じる。これが数学という修辞学なのかもしれません。
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