「やま」に「山」を当てる、「山」に「やま」を当てる(言葉の中の言葉・02)
今回は「あなたとの出会い」で見た詩を、違った視点から見てみます。
*翻訳された詩
上田敏訳の「山のあなた」(『海潮音』より)というカール・ブッセ(上田敏はカアル・ブッセと表記しています)の詩を見てみます。
この詩は青空文庫でも読めますが、だいぶ下のほうにあって、探しづらいかもしれません。
*
まず、訳詩です。
以下は、ドイツ語の原文です。
残念ながら私はドイツ語にはぜんぜん詳しくありません。原文で脚韻があることはかろうじて認められます。欧米の定型詩で見られる音節の数も合わせてあるのでしょうか。
*
上田敏による訳詩をいじってみます。
このようにひらがなだけで表記すると、日本の定型詩である短歌や俳句の基本リズムである、七・五調で訳されていることが分かります。
和語、つまり大和言葉だけがつかわれています。これは、漢字まじりの表記だと気づきにくいことです。もう一度見てみましょう。
「幸」と鉤括弧でくくられているのは、擬人化を意識しての表記なのでしょうか。私にはよく分かりません。
いずれにせよ、山、空遠く、「幸」、住む、人、噫、尋め、涙――に漢字が当てられていますが、どれもが和語だと思います。
*唱歌の歌詞
「山」と言えば、私は。唱歌「故郷(ふるさと)」(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞)を思いだします。出だしだけを引用します。
A)
B)
C)
*
三つの表記をくらべてみましょう。
A):漢字とひらがなが混じっている。大和言葉からなる。
B):この唱歌の歌詞では、各行が十音節(十文字)で、音節の数が(文字にすれば文字数が)見事に一致しています。この調子で三番まで続くのです。
C):上のB)をさらにいじってみると、六音節+四音節(六文字+四文字)であり、これもまた三番まで同じ形で続いているのがわかります。
以上のことについては、以下の「音声として立ち現れるもの、文字として立ち現れるもの」で、さらに詳しく見ていますので、興味のある方はご覧ください。
*「やま」に「山」を当てる、「山」に「やま」を当てる
上田敏による訳詩と、唱歌「故郷」のそれぞれの第一行に共通するのは何でしょう?
「山」という言葉がつかわれていることです。「やま」という音がつかわれているとも言えます。「山」という文字がつかわれているとも言えます。
「山」は「山」だし、「山」は「やま」なんだから、ぜんぜん不思議ではない。当然のことだ――。
そんなふうにも考えられますが、その「不思議はない」と「当然のことだ」に、ここではこだわってみます。
*
A)
B)
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A):
ドイツ語の原文にある「(den) Bergen」に「山」が当てられている。その「山」という漢字は「やま」という大和言葉の音に当てられた文字である。または「やま」という大和言葉の音に「山」という中国語の文字を当てたとも言える。
言い換えます。
大切なのは、ドイツ語の「山」に相当する言葉に、大和言葉の「やま」が当てられ、その「やま」に中国語の文字である「山」が当てられていることです。大雑把な説明で申し訳ありません。
なぜ、大切なことなのかと言いますと、この本記事は「言葉の中の言葉」というシリーズの第二回目だからです。
今述べたことは、もともとこの島々にあったらしい「やま」という音に、大陸から来た文字を当てたとも言える話なのです。
図示化してみます。
やま・yama
山・さん
「言葉の中に言葉がある」ことを体感していただけたでしょうか? 音読と訓読という言葉で説明もできるでしょう。
*
B):
上のA)はドイツ語の詩の訳詩ですが、B)は日本語で作詞されたものです。
それにもかかわらず、もともとこの島々にあったらしい「やま」という音に、大陸から来た文字である「山」を当てた(あるいは「山」に「やま」を当てた)とも言える話であることに違いはありません。
「言葉の中の言葉」という言葉のありようにおいて、つくられた詩なのです。
*言葉の中に言葉がある
第一回目の記事で書きましたが、日本語は和語(大和言葉)系と漢語系の二系統からなる二重構造をしています。
「言葉(言語)の中に言葉(言語)がある」ようなものです。
やま、山
それは個々の言葉(語)に立ち現れています。「見える」のです。「やま」と「山」のいわば二重写しに「言葉のありよう」が見えるのです。
でも、聞こえないのです。
*見えるのに聞こえない
音読すると、つまり口にすると、聞こえないのです。違いが、ちがいが。
やま、山
「見える」のに「聞こえない」――。
話し言葉と書き言葉の違いだという説明もできるでしょう。別の説明の仕方もあるにちがいありません。
ある現象に対する見方は、人それぞれです。専門領域(分野)によっても異なるでしょう。
ここでは、私なりに「言葉の中に言葉がある」という言い方をしておきます。
私はなんらかの分野の専門家ではないので、ただ驚くばかりです。不思議でなりません。
専門用語や学術語や、ある分野特有の理屈で説明されても、不思議なものは不思議だとしか、私には言えません。子どものころから「分からず屋」と言われつづけて今に至ります。
*国破山河在
・漢詩
・書き下し文
私はこの杜甫による漢詩の書き下し文をたまたま暗唱しているのですが、その「山」は大昔の中国の山を指していたはずだと思いあたり、はっとしないではいられません。
なのに、今私たちがつかっている文字と同じ文字が当てられているのです。
この島々のあちこちに太古からずっとあるものたちと、海の向こうにある広い大陸のあちこちにあるものたち。
似ているけど、同じではない。
似ているけど、同じではないものに、同じものが当てられている。
それが、「言葉の中に言葉がある」という「言葉のありよう」の一つの立ち現れ方だという気がします。現れた方は、これだけではないだろうと思います。
*
大和言葉とか和語と呼ばれている言葉の一つである、「やま」という音は、たとえ年月を経てその発音の仕方が変ったとしても、もともとこの島々にあったという言葉の「子孫」らしいのです。
「山河在り」を「さんがあり」と読んだときの、「さん」は昔の中国語がこの島々にいた人たちが聞いた音を「真似た」ものだったと想像します。漢和辞典を見ると、「せん(セン)」という読みもあるそうです。
やま、山、さん、せん
「真似た」は「借りた」でもあったのでしょう。現に、この島々にいる私たちが今、発音し文字として使っているのですから。
*
どんな言語も、「真似た」と「借りた」から成り立っているようです。学生時代に習った「英語の歴史」の話を思いだすと「真似る」と「借りる」の連続だった気がします。
個人レベルでも集団レベルでも、人は言葉を「真似る」と「借りる」ことによって身に付けると言えます。誰もが生まれた時には既に言葉(音声)と文字があったのですから、当然です。
また、「山河在り」の「河」ですが、中国では「川、河、江」が異なるようです。この三語をネットで検索するといろいろ勉強できます。「山、丘、岳」を漢和辞典で調べるのも面白いです。
なお、英語の mountain と hill については、「ひとりで聞く音」という記事で、川端康成作の『山の音』とその英訳を引き合いに出してお話ししているので、興味のある方はお読みください。
ここでは、かつて書いた記事に加筆する形で、hill と mountain について、次の章でお話しします。
*mountain、hill
カズオ・イシグロの書いた A Pale View of Hills の邦訳のタイトルは『遠い山なみの光』(ハヤカワepi文庫)です。長崎から英国に移り住んだ女性の登場人物が、戦後まもない長崎を回想している小説です。
訳者である小野寺健氏が、この小説の中で長崎の hill(s) を自分の語感で「山(なみ)」とお訳しになったのだろうと想像します。
記憶の中にある「遥か遠くの山々の眺め」(a pale view of hills)を「遠い山なみの光」という美しい日本語に移しかえた小野寺氏の詩情に敬意を表します。素晴らしい邦題です。
*
同じくカズオ・イシグロの書いた The Remains of the Day の邦訳『日の名残り』では、何度も出てくる英国の hill が「山」となっているのは、訳者である土屋政雄氏がご自分の語感で日本語に移しかえた結果にちがいありません。
原文では一箇所だけ、hill ではなく mountain という語が使われています。
「峨々(がが)たる山脈」(丸括弧による処理は引用者による)は原文では raggedly beautiful mountains となっています。言うまでもなく、これは英国の山ではなく、語り手が写真で見た「外国の」山々(複数形ですから山脈とか山岳地帯とも訳せます)のことです。
英国には hill はあっても mountain はないと言われますが、引用箇所にそれがよくあらわれていると思います。なお、mountain と hill の違いについては、英和辞典や和英辞典に詳しく解説されているはずです。
*
川端康成が日本語で書き、英訳もある『山の音』("The Sound of the Mountain" by Yasunari Kawabata, translated by Edward G. Seidensticker)、カズオ・イシグロが書いた A Pale View of Hills の邦訳である『遠い山なみの光』、同じくイシグロ作の The Remains of the Day の邦訳である『日の名残り』という日本語で書かれた作品を読むとき、共通して「山」という言葉が出てきます。
鎌倉の山、長崎の山、英国の山
鎌倉の「山」、長崎の「山」、英国の「山」
山は山でも、それぞれの土地の写真や動画や映画で見ると、ずいぶん地形や地勢や風情が違って見えます。
違ったもの、異なるものに、まったく同じ言葉が当てられていることを考えると、思わず唸っている自分がいます。
*何かに別の何かを当てる
では、まとめます。
「似ている」、「同じ」、「同一」、「違う・異なる」、「別物」――。
こうした言葉とイメージにわくわくする自分と、あまりにも不思議すぎて途方に暮れる自分がいます。
私の場合には、言葉(音声)よりも、文字のありように興味があるのですが、最近感じるのは「当てる」といういとなみの不思議さです。
これまで何度も記事の中で書いた文章を引用します。
「似てもいない」ものに「当てた」もので「同じ」とする。
「当てる」、とりわけ文字における「当てる」が、摩訶不思議ないとなみに思えてなりません。
*
「似ている」と「同じ」は似ています。
両者は、よく「似ている」ので混同します。私なんか、しょっちゅう混同します。
つい同一視してしまうのです。もしそうだとすれば、人が「似ている」を基本とする印象の世界で生きているから、ではないでしょうか。
そうだとするなら、そもそも、何かと別の何かが「同じ」かどうかを「語る」資格が人にあるのでしょうか。
「語る」と「騙る」が「同じ」音であることは興味深い事実です。もちろん、日本語での問題ではありますが。
語るに落ちる――。
記事の最後で、変な落ち方をして申し訳ありません。
半分冗談はさておき(半分は本気です)、「語る」と「騙る」が「同じ」音であるというのは、いかにも象徴的に思えます。
いずれにせよ、日本語において「言葉の中に言葉がある」(つまり大和言葉系と漢語系の二つの系統がある)からだという気がします。一方を一方に当てることになります。「かたる」を「語・騙」に、あるいはその逆に。
その当て方が、当たっているかどうかは不明です。
当てる、当たる――。当たるも八卦当たらぬも八卦。「当てる」は意外と「当てにならない」かも。「当てが外れる」ことも多そう。
何かに別の何かを当てるというヒトのいとなみ――、ひょっとすると、これは賭けではないでしょうか? 根拠がないという意味です。猫というものに「猫」という文字を当てる根拠がありますか?
もし根拠があれば、ヒトの世界では同じ言語が話されていて、言葉の中に言葉があるなんてことはないはずだと思います。連想するのは、例の「バベルの塔」の話です。
ジョージ・スタイナー著『バベルの後に』(亀山健吉訳・法政大学出版局)はすごい本でした。眺めただけで、読んだとはぜんぜん言えませんが。
また、根拠があれば、文字の体系も一つだけのはずです。
それなのに、人類はここまで来たのですから、賭けをしているのだし綱渡りをしていることは確かだろうという気がします。もしそうなら、賭けには負けがあるし、綱渡りには落下があることを忘れてはなりません。
近年のこの星での出来事や状態を見ていると、人類が「山を当てた」とは思えません。
・山に「山」を当てて、山を当てた。
・mine(鉱山)に「mine (鉱山)」を当てて、mine (地雷)を当てた。
今のは、言葉のあやとりでした。大変、失礼いたしました。
*
猫と「猫」の話に戻しますが、以下のポストは、いつだったか、私のXのタイムラインに流れてきたものです。
モーリス・ブランショのどの著作(原著はフランス語です)から取った英訳なのか不明なのですが、確かにブランショが書きそうなフレーズだと思いました。
以下のサイトで著作名だけでも、ご覧ください。
ブランショは「掛け・賭け」や「語り・騙り」にも通じていた記憶(偽の記憶かもしれませんが)があります。著作名を眺めていると、そんな気がしてきました。
*
話を戻します。
とにもかくにも、日本語では二つの系統の言葉と言葉が、絡み合って、もつれているし、こじれているのです。これだけ拗れていると拗ねたくなる自分がいます。
絡み合い、もつれて、こじれているのは、どう考えても、私の頭の中のようです。
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