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振れる、触れる、狂れる(文字とイメージ・04)

 前回の「pen、pending、pendulum(文字とイメージ・03)」をまとめます。

 文字を書くとき、人は宙吊り状態に置かれる。文字を書くさいに用いる指も宙に浮く。ぶらぶら、ゆらゆら、ふらふら、という具合に。そうしたイメージを、私は、「pen・ペン、pending・ペンディング、pendulum・振り子」という言葉の文字に感じる。

 以上です。今回は、「ふれる」という言葉を「振れる、狂れる、触れる」というふうに読んで、そのイメージを考えてみます。


*振れる・狂れる


 文字を書くときの人は「振れる・狂れる」。振れる人の指も「振れる・狂れる」。

 そんなふうに私は感じます。

 まるで人が指の「振れ」に擬態する、または逆に指が人の「振れ」に擬態するという「ともぶれ・共振」が起こっているかのようなのです。

「振れる」を躊躇や逡巡と言い換えてもいいでしょう。文字以前のもの、言葉(音声)以前のものを文字と言葉に「かえる」わけですから、そこには迷いがあるはずです。

 書くことは苦しいです。なかなか文字になってくれない場合もあります。躊躇、逡巡、迷いが高じると、錯乱に近い状態になっても不思議はありません。

 そのため、あえて「狂れる」も含めました。あとで触れますが、「狂れる・ふれる」は「痴れる・しれる」に近い気がします。

*変える・換える


 かえる、変える(変容させる)、換える(置き換える)

 いわば、こんな変換が起きているわけです。

 比較的スムーズかつ迅速におこなわれることもあるでしょうし、また難航する場合もあるはずです。

 いずれにせよ、文字や文章は、人の中にある「何か」とは、まったく別のものとして、人の外に出てくる。それが「書く」という行為です。

*人が書く・指が書く


 自分が文字を書くときの指を思い浮かべてください。

 紙の上にペンで書くのであれば、ペンを握った指は宙に浮いた状態から、紙面へと「着地」し、ゆっくりためらいがちに、あるいは勢いにまかせて、ペンが点と線を描いていきます。

 パソコンに向ってキーボードのキーを叩くのであれば、宙に浮いた指がキーを叩くことになりますが、ペンで書くのと同様のためらいや勢いが指の動きに現れるでしょう。

 スマホの場合には、指が液晶の画面を撫でたり滑ったりします。その動きにも人の心が現れるはずです。

     *

 人が書く、指が書く

 これは一種のシンクロではないでしょうか? 同期しているのです。

 私自身の経験というか印象ですが、文字・文章を書いているさなかに、自分が書かされているのではないかという気持ちになることがよくあります。

 何によって書かされているのかと言えば、おそらく文字や言葉(音声)によってだと思いますが、そうなのかどうかはわかりません。わかる必要もないとも思います。

 ただ、文字や言葉(音声)というと漠然としています。一つ言えるのは、指が動いてくれると感じる瞬間や持続した時があるということです。

 そんな時、私は自分が指に擬態している、逆にというか同時に、指が自分に擬態しているのではないかという気がします。

*触れる・書ける


 まとめてみます。

 紙にペンで書く、キーボードを軽く叩く、スマホの画面を撫でる。どの場合にも、宙に浮いた状態で「振れる」指は面に「触れる」ことになります。さもなければ文字や文章は書けません。

 宙吊り・振れる ⇒ 接触・触れる ⇒ 着地・書ける

 上のように図式的に言えるかもしれません。この三つの状態からなるサイクルの反復が執筆なのです。

 いずれにせよ、宙で「振れる」から平面に「触れる」ことで、初めて文字は「掻ける・架ける・書ける」と言えるでしょう。

*引用


(この章は余談ですので、スキップしていただいてもかまいません。)

 ここで引用したい文章があります。長いものなのですが、これで一センテンスであり、一段落です。この直前にも長い一センテンスからなる一段落があるのですが、割愛します。

 出典は、「書くこと=消すこと」in「Ⅰ 批評と夢」in「言葉の夢と「批評」」『表層批評宣言』(蓮實重彥著・ちくま文庫)所収)です。

 だが、この当然さ﹅﹅﹅は、いささかも人びとによって共有される気配がないばかりか、かえって抽象と戯れる不毛な言説と断じられ、知的想像力が捏造する不条理としてあっさり回避されてしまうので、言葉の孕むべき夢をこともなげに抹殺することが書くこと﹅﹅﹅﹅の同義語となり、誰もが書けば書け、読めば読めてしまうという眩暈なしには信じがたい言葉の変幻自在な相貌に触れても、誰もが新鮮に驚くことを忘れてしまうといったかたちで事態が進行してしまうのだが、そんなありさまを呆気にとられるふうもなく凝視しうる連中に欠けているのは、言葉の夢、それもできれば美しくありたいといったロマンチックな夢ではなく、言葉を書き、読みとる瞬間ごとに言葉が夢みよと強要しにかかるきわめて具体的な夢、つまりは、すでに書かれてしまった言葉で汚染されてはいない空間にふと生まれ落ち、言葉ならざるものから言葉へと移行するそのまばゆい航跡をゆっくり時間をかけて享受しつつ、しかも別の言葉たちと触れて匿名化される以前の艶やかに湿ったその表皮の始源的な隆起や陥没ぶりを、これまた言葉に汚染されてはいない個体の無垢の視線で、それ自体がエロティックな行為であるとも意識されぬままに深々とまさぐられてみたいという不可能な夢にほかならない。
(pp.12-13)

・「誰もが書けば書け、読めば読めてしまうという眩暈なしには信じがたい言葉の変幻自在な相貌に触れて」の「触れて」を振れて、さらには狂れてと読みたい衝動を私は覚えます。

・「呆気にとられる」とは、呆けること、つまり痴れること、狂れることでしょう。

 引用文の言う「書くこと」、「言葉が夢みよと強要しにかかるきわめて具体的な夢」、「不可能な夢」とは、言葉を書くことによって人のこうむる、知ではなく痴へといざなう、荒々しい力(暴力と言ってもいいでしょう)ではないでしょうか。その力に触れたとたん、人は狂れるしない気がします。

 そんな事態を回避するために、人は賢明にも平面に並ぶ文字たちを見ないで、そこに奥行きや深さを見てしまうし読んでしまうのでしょう。これがいわゆる健全な知にちがいありません。

 私の好きな言い方をすると、以下のようになります。

・目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。

     *

 引用文のもう一箇所にこだわってみます。

・「しかも別の言葉たちと触れて匿名化される以前の艶やかに湿ったその表皮の始源的な隆起や陥没ぶりを、これまた言葉に汚染されてはいない個体の無垢の視線で、それ自体がエロティックな行為であるとも意識されぬままに深々とまさぐられてみたい」:

「その表皮の始源的な隆起や陥没ぶりを」「視線で」「深々とまさぐられてみたい」

 いわば皮膚の表面である皺や襞や折り目を「深々と」まさぐるわけですが、これが「視線」の身振りであることに注目しないではいられません。

「エロティックな行為」でありながら、「視線」が入る、射る、または、指す、射す、挿す、差すのではなく、まさぐるのです。挿入や貫通を指向しません。視線で触知するという蓮實的な言い回しが変奏されています。

 ここでは振れる、触れる、狂れる指が視線と化しているかのようです。視線と化した指、指と化した視線。

「それ自体がエロティックな行為であるとも意識されぬままに」 ⇒ 知れぬままに

 触知と言えども、この「行為」は知ではなく痴ではないでしょうか。「言葉の夢」、「不可能な夢」という名の忘我なのです。そもそも夢とは痴れる状態であるはずです。

 そこに矛盾や否定はなく、あれよあれよと進行し、なんでも肯定されるのが夢にちがいありません。言葉の夢、夢の言葉。

 着地をめざしてはいない、「いまここ」しかない、それでいて「いまここ」でもない、宙吊り――。蓮實の文章では、センテンスでも、段落でも、章でも、書物全体でも、こうした展開と進行が見られます。pen、pending、pendulum。

(なお、蓮實は言葉(ここでは音声ではなく文字の意味です)に対して視覚的なとらえ方をする書き手だと私は思います。同音や似た音に惹かれることはまずありません。禁欲的に感じられるほどです。蓮實の文章には言葉の身振り同士を掛ける(言葉の動きの同期や類似に敏感に反応するのです)ことがきわめて多い一方で、掛詞が見られないのは、そうした姿勢が働いているからかもしれません。)

      *

 もちろん、私たちはメタフィジカルな世界にいるわけではなく、フィジカルな現実(うつつ)にいるのですから、たとえ一時的に言葉の夢の中にいたとしても、いつか身体的な(フィジカルな)目覚めはあるし、執筆には必ず物理的な(フィジカルな)着地があります。

*狂れる・痴れる


 話を戻します。

     *

 宙吊り・振れる ⇒ 接触・触れる ⇒ 着地・書ける

 上のように図式的に言えるかもしれません。この三つの状態からなるサイクルの反復が執筆なのです。

 いずれにせよ、宙で「振れる」から平面に「触れる」ことで、初めて文字は「掻ける・架ける・書ける」と言えるでしょう。

     *

 さらに言うなら、私にとって、書くときの人とその指の動きは、「振れる」と「触れる」が起きているだけでなく、「狂れる」ように思えてなりません。

 文字は得体の知れないものだ。文字のありようはなかなか見えない。そうした思いがあるからだと自己分析しています。

     *

 人はありとあらゆるものを狂ったように文字にして、発信、投稿、複製、拡散、保存している、しかも今ではこうしたことがほぼ同時に瞬時に起こっている――。ここまで来たかという感じがします。

 振れる ⇒ 触れる ⇒ 書ける・掛ける・賭ける
 ぶらぶら、ぶれる

 振れる ⇒ 触れる ⇒ 書ける・狂れる・痴れる
 ふらふら、ふれる

     *

 書けるというのは、狂れることであり、痴れることではないでしょうか。

 そもそも、「文字を書く・文字が書ける」は「欠ける」から出発します。始まりは、「無」、なにも「ない」なのです。

 とっかかりが「ない」。取り掛かるものが「ない」。そこから、おもむろに人は筆記具に手を「掛ける」。そうやって「賭け」に出るのです。

 欠ける、掛ける、懸ける、駆ける、架ける、賭ける、描ける、書ける。

 こんなことがあってもいいのでしょうか。

 発したとたんに次々と消えていく、つまり「話す・放つ・放す・離す」と「放れる・離れる」言葉(音声)に「掛ける・懸ける・架ける」と「(橋が)架かる」のも不思議ですが、文字に「掛ける・懸ける・賭ける」と「書ける」のも不思議でなりません。

「かける」の掛詞(懸詞)はさておき、それだけではありません。

 ならす、慣らす、均す、平す、馴らす。

 ひたすら地を均すように、人は白い紙を必死に馴らそうとします。

 文字を書くためには、平たい面が必要なのです。平たい場所で、平たい台に腰を据え、平たい面に向わないとうまく掻けないし描けないし書けない。

  タブロー(tableau)、ビューロー(bureau)、テーブル(table)、タブラ(tabula)、タブラ・ラサ(tabula rasa)、タブレット(tablet)、紙面、画面、スクリーン、表、文書、木版、絵板、絵画、カンバス、図表、図、譜、卓、床、大地、手のひら、掌

 平面と薄っぺらいものへの、人の並々ならぬ執着――

 つくものはつかれる、とりつくものはとりつかれるのかもしれませんね。みいるとみいられるのに似ています。ミイラ取りがミイラになるのと、たぶん同じです。

 もちろん、今のは冗談です。ごめんなさい。

 文字のありようと、文字を書くときの人のようすが、不思議であるのは事実ですが、痴れるほど真剣になる必要はないだろうとも思います。

 そもそも人は文字を見ることができないのですから(そこに「ある」文字を見るのではなく、そこには「ない」意味を読んでしまうのです)、文字について人の知ることのできることなど、知れたものだ。そんな気がしてきました。

 とはいうものの、知らず識らずに痴れるという事態も大いにありうる気がします。

 しれてしられて しらんぷり
 ふれてふられて ふらみんご

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