まばらにまだらに『杳子』を読む(03)
しる、しるす、しるし
谷底の河原で杳子が見つめていたのは、人が積んだ「小さな岩の塔」ですが、登山がおこなわれている山にある積み石は、道しるべや目印のようです。ただし、ケルンについて調べてみると山で石を積む行為には批判的な意見も多々あります。
『杳子』では、以下のように「誰かが戯(たわむ)れに積んでいった」という断定口調の形容がありますが、アイロニーなのかもしれません。
(『杳子』pp.8-9『杳子・妻隠』新潮文庫所収・丸括弧内はルビ、以下同じ)
いずれにせよ、ケルンは、人の手が加えられていない自然界における人の手による、広義のしるしとして私は受けとめています。何らかの意味やメッセージや意図があるだろうという意味ですが、人がそこにいたしるしであることは確かでしょう。
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しる、しるし、しるべ――マーキングや縄張りという言葉を連想しないではいられません。さらには、領地、領土、領域も思いうかびます。国語辞典や漢和辞典を参照しながら、漢字分けをしてみます。
しる、知る、領る、痴る、察る、識る。
辞書の語源の説明を読んでいると、「知る」と「自分のものにする」と「支配する」とがつながるらしいのですが、私はその連鎖(つながり)に果てしない人類の欲望のつらなりを見ないではいられません。
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もっと遊んでみましょう。
しるし、印、標、徴、証、著し、験、症、効、章、符、誌。
しるす、印す、標す、徴す、記す、誌す、識す、銘す、録す、紀す、注す、註す、志す。
上の文字列をながめていて浮かんでくるのは「あらわれ」と「あらわれる」です。「しるし」に当てた漢字たちを、ぜんぶ「あらわれ」と読みたくなり、「しるす」に当てた「~す」という文字列を、ぜんぶ「あらわす」とか「あらわれる」と読んでもかまわない気がしてきました。
あらわれ、しるし
「まばらにまだらに『杳子』を読む(02)」でつくった文字列と、上の文字列をいっしょに並べてみましょう。
あらわれ、現れ、顕れ、表れ、露れ。形、著、見、顯。
しるし、印、標、徴、証、著し、験、症、効、章、符、誌。
似ています。少なくとも私にはそう感じられるのです。「あらわれる・あらわす」と「しるす」でも、遊んでみたくなりました。
あらわれる、現れる、顕れる、表れる、露れる。
あらわす、現す、顕す、表す、著す。
しるす、印す、標す、徴す、記す、誌す、識す、銘す、録す、紀す、注す、註す、志す。
『杳子』に「顕」が出てくるのを思いだします。
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「顕われる」のように「現われる」としていたのが村上龍です。学生時代のことですが、この送り仮名が目につき(それほど年の違わない私は当時からいまもずっと「現れる」と書いています)、村上龍の作品と彼と同世代の作家の作品の表記を、くらべたのを覚えています。
村上龍がいまもこの表記を選んでいるのかは知りません。村上春樹についても――その作品は読んではいますけど――知りません。
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引用箇所では「彼」が自然物である岩に「さまざまな人の姿」を見ていて、それを「顕われかかる」と表現しているわけです。上で述べたように、しるしとあらわれが似ていると感じた私は、ここで両者の違いに気づきます。
しるしは人工物、あらわれは自然物であったり自然現象である度合いや意味合いが強い気がします。
そう考えるなら、この作品の冒頭では、ケルンという人工物がしるしであり、岩という自然物に「彼」が見ている「人の姿」があらわれだと言えるでしょう。
とはいうものの、杳子にとってはケルンがしるしではない、詳しく言うと、杳子の目にはケルンがしるしとして映っていないようなのです。「まばらにまだらに『杳子』を読む(01)」で見た箇所をもう一度引用してみます。
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人工物であるしるしに、しるしとは別のものがあらわれている――。
杳子にはそうした事態が起きているのかもしれません。自然物にそれとは別の何かがあらわれているらしい「彼」に起こっている事態と似ているような似ていないような、不思議な気持ちがします。
いっぽうで、ふたつのあらわれには大きなずれがある気もします。どう、ずれているのでしょう。読むしかなさそうです。
(つづく)