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「私は猫」と口にする
ギリシャ的真理は、かつて、「私は嘘つきだ」という、このただ一つの明言のうちに震撼された。「私は話す」という明言は、現代のあらゆる虚構作品に試練を課す。
この二つの明言は、実を言えば、同じ力をそなえてはいない。(……)
(ミシェル・フーコー「外の思考」(『外の思考 ブランショ・バタイユ・クロソウスキー』豊崎光一訳・朝日出版社)所収・p.11)
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私は猫です。
上のように誰かが誰かの目の前で口にしたとしたとします。そんな場面を思い描いてみてください。
ほんの少しですが、時間が掛かります。「私は猫です」と口にするのには、始めと途中と終わりがあるからにほかなりません。
人は一度に一つの言葉しか口にできない、あるいは一つの語しか書けない――。
うろ覚えで恐縮ですが、そんな意味のことを蓮實重彥がどこかで書いていた記憶があります。
言葉を発する行為は、一度に音あるいは音節を一つずつ発することの連続ですから、「私は猫です」と口にし終えるまでにそれ相応の時間を要するのは当然です。
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言い方を変えると、始めと途中と終わりのある話すという行為は出来事なのです。しかるべき順序でつぎつぎと起きる出来事。
さらに言うなら、出来事とは事なのです。
愛用の辞書(広辞苑)を引くと、「こと【言】(事と同源)」、「こと【事】(もと「こと(事)」と同語)」、という記述があります。
なるほど。
事であり言。ことでありこと。言であり事。
言は事。ことはこと。事は言。
つぎつぎと起きて消えてしまう事を、人は言にするしかないのかもしれません。
言にして、口で伝えればいい。口伝、口伝え、口移しというやつです。
事から言へ。ことからことへ。
一件落着。
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とはいえ、これもまた、ことです。困ったことには変わりません。言も、つぎつぎと消えてしまうからです。
でも、大丈夫。
つぎつぎと消えてしまう事と言を、消さない限り消えない文字にすればいい――。
これが人類の編み出した窮余の一策。というより、究極の秘策なのかもしれません。
なにしろ、文字は物です。墨やインクの染みであったり、今では画素の集まりだったりもしますが、要するに文字は物、つまり物質なのです。
さもなければ、消さない限り、いつまでも目に見えるわけがありません。机の引き出しやタンスの中に保存できるわけがありません。
ただし、机の引き出しやタンスにしまえない画素の集まりは要注意です。物とか物質と言うより、デジタル化された情報とかデータ(利用するには電力が必要です)なのです。
出来事という意味での事でもない気がします。なにしろ、あっという間に消えるのです。それでいて、またたく間に現れるのですから。
電気仕掛けの妖怪みたい。この妖怪、液晶画面に憑きます。憑かれているヒトが急増中。ここにもいます。
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まとめてみましょう。
事は目に見えても、つぎつぎと消えていきます。事を言にしたところで、言もつぎつぎと消えていくし、しかも目に見えない。
そこで、事と言を文字にします。文字は消さない限り残る。しかも目に見えるのです。
こんなに心強いことはない。いや、ものはない。
事 ⇒ 言 ⇒ 物
事・言 ⇒ 物
試しに、今述べたまとめを音読してみてください。それを誰かに聞いてもらってください。
コトコト、コトコト。コトコト、コトコト。いったい、何のことやら。肝心なところが伝わらない。
事である言が、いかに心もとなく頼りないかが体感できるでしょう。
文字は目に見えます。人は目に見える物に絶大な信頼を置いているのです。
話をもどします。
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私は猫です。
このように誰かの目の前で口にした場合について、どんなことが考えられるでしょう。
冗談、ふざけている、お芝居、お芝居の練習、朗読、音読、ひとり言、意見、感想、訴え、嘘、虚言、作話……。
うたう・歌う・詠う・唱う・謡う・詩う、よむ・詠む、かたる・語る・騙る、物語る。
虚構、擬人、呪術、憑依、酩酊、泥酔、悟り、解脱、勘違い。
なりきり、なりすまし、なりかけ、なりそこない。
いろいろな場合が考えられます。いろいろなことが浮んできます。わくわくもします。こういうことを考えるのが、好きなのです。
話をもどします。
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「私は猫です」と口にするのは、人でしょう。いや、最近はそうでもありません。
機械とかシステムが「口にする」というか音声を出す場合があります。放送や録音の再生という場合もあります。
別に不思議な話ではありませんが、そんなさまを昔の人が目にし耳にしたら、腰を抜かすに決まっています。
これはことなのです。驚くべきこと。それなのに、今では当然だと考えるようになっています。
慣れとは恐ろしいものです。自分たちのつくったものに慣れてしまうことがいちばん恐ろしいと思います。自分たちのつくったものだから、と高をくくっているのでしょう。
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ここでは、ざっくりと大雑把にいきます。
人も機械もシステムもオウムも文字も記号やしるしも、振りをしているのです。振りにおいて、意図や意志や意思や意識や感情や心や魂といったややこしいものは、無視します。
面倒なので度外視するのです、ここでは。考えない振りをするとも言えます。
振りとは、非人称的で、匿名的で、ニュートラルな、もののありよう――なんて風にも言えるでしょう。
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だいたいにおいて、これまでnoteで書いてきた文章では、そうしたややこしいものには、あえて踏みこまないできました。小説を対象にする記事においてでもです。
ひたすら言葉と文字の身振りに目を向けて、それについての思いをつづってきただけです。たとえば、作者の意図なんて考えることは、あまりないので、書くこともあまりありません。
読みながら、文字の身振りに、こちらも振れていくだけです。
ふれる、振れる、触れる、狂れる
文字を読むことは、ふれることだと信じています。
話をもどします。「私は猫」と文字にすることについては、次回にでも書くつもりです。
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私は猫です。
上のように誰かが誰かの目の前で口にしたとしたとします。そんな場面を思い描いてみてください。
人が話す場合の話です。
話すときの声の振りと顔の表情という振りと仕草や身振りが、始まりと途中と終わりのある出来事として、立ち現れる、振れる。
その立ち現れた振りに(←ここは二重の意味があります)、こちらもともにふれる。ともぶれする、共振する。
この振りが意味なのだろうと最近は受けとめています。
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はなす、話す、放す、離す
はなされる、話される、放される、離される
はなれる、放れる、離れる
振りは、人から、はなれてつぎつぎと消えていく。
消えていく振り(←二重の意味があります、消えていく素振りを演じると、消えていくかたちとしての振り、前者は振りに意志や意図を想定し、後者は度外視しています)。
人はそのはなれていく振りに、ともにふれる。どうふれるかは、人それぞれであるにちがいありません。
振りは風とも書くそうです。
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風にも、始まりと途中と終わりがありますね。
たとえば、そこで風に吹かれている人から離れて、つぎつぎと消えていくのです。息のように消えていきます。
風は立ち、生き、倒れていく。まるで人のようではありませんか。
辞書によると、生きるは息と同源だそうです。
猫の耳 ふっと吹いて 風の振り
(つづく)
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この文章は「私小説」(001~008)のいわば口語編のつもりとして書いています。常体は書き言葉であり、「です・ます調」は話し言葉だからなのです。もちろん、あくまでも個人的な見解ですけど。
敬体のほうが、言いたいことが細かいところまで書けるのです。脱線や飛躍もしやすくて重宝しています。言辞(レトリック)を弄するのにも適しているようです。
みなさんに話しかけたいという気持ちが強くあるのですが、常体だとモノローグになってしまいます。
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「私小説」(001~008)を話し言葉――とはいえ文字による書き言葉にはちがいないのですけど――へと、少しずつ翻訳というか翻案していく予定でいます。
自分で書いた文章の翻訳とか翻案なんてやっていると、ますます記事が金太郎飴化するに決まっていますが……。
最後に「(つづく)」とあるように、連載のつもりです。連載っぽくなく、ゆるやかにつながっていくシリーズにしたいと思います。
また、来てくださるとうれしいです。