まばらにまだらに『杳子』を読む(02)
あらわれ
たった一人で登山をして下山する途中に深い谷底にたどり着いた若い女性がいるとします。その人が「小さな岩を積みあげたケルン」を目にしたときに、どんな反応を示すでしょうか。
*
ところで、古井由吉作『杳子』の「一」という章では、杳子の見つめるケルンを形容するさいに石という言葉が使われず、「岩」とされています。私はやや不思議に感じるのですが、この点については別の機会に触れるつもりです。
物質としては同じであろう、「岩」と「石」と「砂」が、この作品では異なった性質を帯びるものとして書かれているようなのです。現実の世界と言葉で分ける言葉の世界とでは――両者が部分的に(おそらく、まばらにまだらに)重なるのは言うまでもありませんが――、事物は異なる身振りを見せるのかもしれません。
*
「尾根の途中から谷に入ってきた」、この小説の視点的人物である「彼」とおなじく、杳子もまた登山を終えて谷底にいるようなのですが、「岩ばかりの河原」に達した杳子は自然のなかにある自然ではないものを見つめています。
天候や風向きや動植物の様子や地形や地勢や獣道――こうした自然界におけるさまざまな、あらわれを知覚を動員して読み取ることなしに、登山を遂行するのは無理だろう。登山の経験が皆無である私は無知なりに、そう想像します。
あらわれ、現れ、顕れ、表れ、露れ。形、著、見、顯。
自然界におけるあらわれには、人がつけたり、こしらえたものもあるはずです。この小説では直接書かれてはいませんが、たとえば先行した登山者の設けたルートや小屋や登山道や道しるべがそうでしょう。
感じ分ける
みちしるべは、道標とか道導とも書けるようです。
しるべ、しるし、しるす、しる。
みちびく、導く。
みちびく、みち、道、路、途、径。
上の文字列をながめていると、獣道という言葉が頭に浮かびます。いま記した「獣」という文字と、上にある「導」から、古井作の短編『先導獣の話』も連想しました。
こうした連想を雑念や邪念としてしりぞけるのではなく、積極的に楽しむのが、私の読み方です。まばらにまだらに読んでいくのです。
*
登山においては、多種多様な自然のあらわれを、形や色や音や振動や匂いや触感や湿気や温度や気配として感じ取る必要があるでしょう。村や里や町や都市といった人間の社会で生活をいとなむのに必要な知覚とは――重なる部分はあるにしても――、異なった感じ分けが要求されるだろうと私は想像します。
いま書いた「感じ分け」や「感じ分ける」は、古井由吉が好んでもちいる言い回しで、私もつかうことがあります。
「(まず)感じて(つぎに)分ける」とか、「感じる」=「分ける」という意味合いなのでしょうが、その語呂から、私は「漢字分け」を連想します。こういうことが好きなのです。言いわけになりましたが、そんなわけで私の文章は漢字分けだらけになります。
あらわれ、現れ、顕れ、表れ、露れ。形、著、見、顯。
みち、道、路、途、径。
和語に漢字を当てるとか、ぎゃくに漢字に和語を当てるいとなみが漢字分けなのですが、これもまた一種の感じ分けである気がします。
(つづく)