![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/158283822/rectangle_large_type_2_a5fd0509025ceb37b4db202d57df4f54.png?width=1200)
複製でしかない小説(複製について・03)
「複製としての楽曲(複製について・01)」と「絵画の鑑賞(複製について・02)」の続きです。
複製として意識されない複製
前回のまとめから大切な点を引用します。
*絵画の複製:見える ⇒ 複製として目立つ
*楽曲の複製:見えない ⇒ 複製としてあまり意識されない
*小説の複製:見えるけど見ないで読む ⇒ 複製だと意識しながら読む人はまずいない
(※小説の複製が「見えるけど見ないで読む」ものだというのは、文字としては見えるけど、文字を見ることはなく、意味を読むものだという意味です。たとえば、小説に「猫」という文字があれば、「そこにある」文字を見るのではなく、「そこにはない」猫というものを頭に浮かべる、それが「読む」行為だと言えばわかりやすいかもしれません。)
このように、絵画、楽曲、小説の順で、複製として目立つし、意識されると言えそうです。というか、そんな印象を私はいだいています。
*
いずれにせよ、複製としての作品を鑑賞する場合には、自分が鑑賞しているのが複製であるとは意識しないのが人情だと思います。私も意識しません。
こんな記事を書いている時点では、「複製は複製だ」なんて意識していますが、この記事を書き終えたら、ころりと忘れてしまうにちがいありません。
その意味でこの記事で書いていることは、本音ではなく建て前みたいなものと言えるでしょう。たとえば、モナ・リザの複製を見ているときには、「これは複製だ」なんて毛ほども考えません。
補聴器をした耳で必死で楽曲を聞いているときにも(私は障害者手帳を持つ重度の中途難聴者なのです)、「自分が聞いているのは複製であり、そもそも機械が作った人工音なのだ(再生装置の作った音を補聴器の作った音で聞いている)」なんて思いません。
小説の文庫本を手にして、「これは印刷物だから、オリジナルではなく複製を読んでいることになる」なんて意識しながら読むことは、絶対にないと断言できます。
でも、どうしてなのでしょう? どうして複製は複製として意識されないのでしょう?
興ざめするからに決まっています。それ以外に理由なんてあるでしょうか?
複製でしかない、複製しかない、複製(で)しかない
今回は「複製でしかない小説」というタイトルで、複製としての小説について私の思うところをお話しします。実は、このタイトルは「複製しかない小説」になるはずだったのです。
「複製でしかない」と「複製しかない」とでは意味が異なります。どっちにしようかと迷い、中を取って「複製(で)しかない」にしようかとも考えました。
小説は文字しかない。小説は文字でしかない。小説は文字(で)しかない。
目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。
小説は letter(s)である。
なお、小説は文字であり文学であり、手紙であり、レッテル(letter)だとも思います。
小説は letter(s)である。
*
話を戻します。
小説は複製でしかないし、複製しかないと私はよく思います。思っているだけです。
それは小説のオリジナルが曖昧だからにほかなりません。小説のオリジナルとして考えられそうなものとしては、生原稿とかゲラ刷りが浮びます。
現在はパソコンでの執筆が増えているようですが、この場合の生原稿に相当するものが何て呼ばれているのか知りません。
あと、「雑誌での初掲載 ⇒ 単行本 ⇒ 文庫本」という流れも、頭に浮びます。
こんなふうに、小説のオリジナルと複製をめぐって、ああでもないこうでもない、ああだこうだと考えていると、小説のオリジナルにこだわることはない気がしてきます。
小説は複製でしかない、小説では複製しかない、複製(で)しかない小説
このように言葉を転がしてお茶を濁すのが私らしいのではないか、という結論です。
「失われた原本」、「作品」、「目の前にない何ものか」
小説や物語など、現在は「文字からなる作品」として読まれているものについて考えるさいに、私が読みかえす本があります。
藤井貞和著『古典の読み方』(講談社学術文庫)なのですが、「視覚芸術としての「文字で書かれた作品」(文字について・05)」で引用した部分をここでも紹介します。
『竹取物語』でも、極端なちがいではないにしろ二種類あるし、『源氏物語』では、青表紙本系統と、河内本系統と、それからそのどちらにもはいらないと見られる陽明文庫本その他とに分かれる。
だから「作品はどこにあるか」という問いは、けっしてふざけた問いなのでなく、古典文学の場合、どうしても出てくる。もしほんとうに原本があったとしたら、それはすでに現在、失われていることだろう。だから原本を中心にして「作品」を考えると、「作品」は目の前に置かれているどころか、目の前にない何ものかだ、ということになる。
(pp.29-30・太文字は引用者による)
*
口承文学として(後には写本という形で)、あるいは写本という形で受け継がれてきたものとして、物語があるとするなら、そのオリジナルや原本は「現在、失われている」と言えそうです。
ここで話を飛躍というか短絡させますが、小説のオリジナルも「失われている」と考えられないでしょうか?
そもそも小説を構成している要素の一つである文字(活字)が複製であると考えるなら、小説は複製としてしか存在できない気が私にはします。気がするだけです。
誰にとっても、言葉(音声)と文字は生まれたときに既にあったものです。それを借りる、真似る、なぞるという形で、私たちは学習し習得します。
音声の流れや組み合わせも、文字や文字列や文字の組み合わせも、その基本的な単位は、借りる、真似る、なぞるという行為を通じて学習し習得したものだと思います。
話を小説に絞りますが、文字と活字を複製と見なした場合、その活字という複製からなる小説は、常に複製としてあるような気が私にはします。
*
複製としての小説では、原本は失われているというか「ない」のであり、原本が「ない」と考えるのなら、小説という「作品」は物語と同様に「目の前にない何ものか」とも言えるし、目の前にある「何ものか」とも言えそうな気がします。
それが私のイメージであり印象です。
起源のない引用、引用の引用、原物のない複製、複製の複製
文字と活字は複製だとよく思うのですが、その文字と活字からなる小説が自明のものではなく、不明な「何ものか」に感じられてなりません。
ある作者がいてその作者が書いた作品であるはずの小説が不明であったり、「何ものか」であるだなんて、何かの間違いであり、私の事実誤認だという気もします。
確かに、目の前にある小説を私は目にすることができます。でも、文字列を見ることができても、それを読んでいるのかどうかもまた、私には確信できないのです。
読むという行為は、私にとって謎に満ちた「何ものか」なのです。それは、読む対象である文字が、謎に満ちた「何ものか」だからにほかなりません。
*
話を少し変えます。
以前から、つかっているフレーズがあります。起源のない引用、引用の引用、原物のない複製、複製の複製、というものなのですが、私には小説がまさにそれだという気がします。
記事が長くなってきたので、今回はこの件については、これ以上立ち入らずに、別の機会にまわすことにします。
複製、複写、コピー
絵画の場合には、複製という言葉はよくつかわれますが、楽曲と小説については、複製という言葉は著作権にからむ問題を論じるさいに用いられることが多いようです。
前回の「絵画の鑑賞(複製について・02)」でも書きましたが、「小説の複製」とか「楽曲の複製」という言い方は、日常生活ではあまり出てきません。
小説の単行本や文庫には、奥付に「無断複写(コピー)」を禁じるという意味のフレーズが記されていることがしばしばあります。そうした記載がない書物もあります。
その「複写(コピー)」が「複製」に当たるようです。
私は著作権法には不案内なので、著作権法での「複製」や「複写」や「コピー」についてはお話しすることができません。
話を変えます。
複製にまつわるイメージ
日常生活でつかわれる複製という言葉のイメージについて考えてみます。
オリジナル、原物、現物、実物、本物、ほんまもんといった一連の言葉にくらべると、複製という言葉はネガティブなイメージを持っているというイメージを私はいだいています。
複製の類語を並べてみましょう。複写、模写、模型、写し、コピー、レプリカ、似たもの・似せたもの・にせもの、模造品、模作、まがいもの。
恥ずかしさ、ざんねん感、敗北感、うさんくささ、まがいもの感、卑下といったイメージがまとわりついているのを否定できません。
*
話を変えます。
「何を読んでいるの?」
「カフカの『城』だよ」
「複製で?」
これはありえない会話ではないでしょうか。
「何を読んでいるの?」
「カフカの『城』だよ」
「翻訳で?」
「もちろん、ドイツ語なんて読めないもん」
これはありえます。
「何を読んでいるの?」
「カフカの『城』だよ」
「文庫で?」
「そうだよ、単行本なんてあるの?」
これもありえます。
「何を読んでいるの?」
「カフカの『城』だよ」
「誰の翻訳?」
「ん? きみさあ、いったい何が言いたいわけ?」
無きにしも非ずという感じでしょうか。
「何を読んでいるの?」
「漱石の『道草』だよ」
「自筆原稿で?」
「えっ!?」
まれにありそうですね。ただし、これも複製だと思われます。オリジナルとも言えそうな自筆原稿も複製で読むのが一般的なようです。
『道草』の自筆原稿(八八九枚)を全て原寸大オールカラーで掲載。推敲の跡を辿る事は創作の謎を解く鍵の一つ。名作誕生の息吹きを鮮やかに伝える本書の普及は、漱石研究に新局面を開くであろう。連載第一回冒頭の二葉を精緻な原色印刷で複製し、付録する。
限定380部・A4判・総904頁・上製クロス装・函入・別冊解説+複製二葉付録
上に引用したのは、二玄社のウェブサイトにある『夏目漱石原稿 道草 〈全3巻〉』の紹介文です。「複製」という文字が見えます。
複製が出版されているのですから、漱石の『道草』の自筆原稿は読みやすい文字で書かれていたのだろうと想像します。
*
ロシア語らしいので読みやすいかどうかはわかりませんが、以下のドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の自筆原稿には迫力を感じます。
日本語で読んだあの小説が――新潮文庫でした――、こんなふうに書かれていたのですね。興味深い写真です。見入っていると、気が遠くなりそう。
Fyodor Dostoevsky's manuscript draft of The Brothers Karamazov pic.twitter.com/EQ0azj31zj
— Fyodor Dostoevsky | Novelist & Philosopher ✍️ (@Dostoevskyquot) September 15, 2024
ドストエフスキーの小説の中には、口述筆記されたものがあると聞いた記憶があるのですが、その場合にはオリジナルは声だったのでしょうか? 「声だった」と過去形でしか書けない気がします。
音声は発したとたんに消えますから。それが文字にされたと言っても、文字は声ではないわけですし。誰も見たことがない、誰も読んだこともない、失われた声のオリジナル……。
不毛と言えば不毛、夢のようだと言えば夢のようなオリジナル。
*
声はともかく、小説における「オリジナル、原物、現物、実物、本物」のありようが不明になってきます。
いずれにせよ、言えるのは、小説においては複製だらけ、複製でしかない、複製しかないということです。
小説は複製で読むものなのです。オリジナルで読んだ人なんているのでしょうか? そもそもオリジナルとは?
*
それにもかかわらず、自分の読んでいる小説が複製だと言う人はまずいないでしょうし、複製だと意識している人もきわめて珍しいと私は想像しています。
この想像が正しいとすれば、なぜなのでしょう?
複製という言葉にまとわりついている、恥ずかしさ、ざんねん感、敗北感、うさんくささ、まがいもの感、卑下といったネガティブなイメージがあるからかもしれません。
ちなみに、私はここ、つまり note の記事以外で、「小説は複製だ」なんて言ったことも書いたこともありません。
そんな失礼なことが口にできるでしょうか? 文字にできるでしょうか?
これが私の本音です。
これから、久しぶりに中上健次の小説を読もうと思います。
私がこれから読むのは、小説です、作品です、本です、「目の前の何ものか」でもありません、ましてや、「複製」では断じてありません。
*
あ、そうそう、「複製」が各人にとって掛け替えのない物、たった一つのものになることを付け加えておきます。
愛用の靴、愛用のペン、大切な人の遺品だった人形、大切な人の写真……。
こうしたものはたとえ大量生産された製品であったとしても、あるいは複製と呼ばれることもあるものだとしても、掛け替えのない物となりうるのです。
one of them = the only one
というか、人にとって複製とかオリジナルというのは言葉でしかない(レッテルでしかない、言葉の綾でしかない)とも言えます。
どんなものであれ、目の前にあるものは、掛け替えのない「たった一つのものとして」、そこにあるのです。
これは人として生きるうえで、とても大切なことだと私は思います。
#複製 #楽曲 #絵画 #小説 #オリジナル #物語 #藤井貞和 #引用 #起源 #自筆原稿 #夏目漱石 #道草 #ドストエフスキー #複写 #コピー