知らないところに自力でバスでいかなきゃならない心労は、観衆の中で大書パフォーマンスをするよりきつくてつらい
昨日は忙しかった。
気ぜわしかったというべきか、夜にはぐったり。
午前中のお稽古のあと、チャツウッドから280のバスに乗ってブルックベールにある St Augustine’s College という私立男子校に行ってきた。Year7(中学1年)の男子60人を対象に、書道のデモンストレーションと軽いワークショップをするためだ。
どうやらこの日は日本文化体験日で、午前中に和食や茶道の体験もあったらしい。
個人的には全くなじみのない場所で、自力で行ったことがないからバスが不安でしょうがない。渾身のスマホ頼りだ。
「次は~ワリンガモールぅ~、ワリンガモールぅ~。XXXへお越しの方、こちらでお降りください。」
とか車内アナウンスしてくれれば、降りるバス停も難なくわかるが、オーストラリアにはそんなものはない。景色を楽しむ余裕があるはずもなく、握りしめたスマホの画面内で移動する丸い点だけが頼りなのである。それだけで相当疲れる。
とにかく信頼を裏切らないSONYのスマホのおかげでちゃんと目的のバス停で下車。SONYありがとう。どこぞの国のアンドロイドだったら全然違うところで降ろされて途方に暮れたかもしれない、なんてことは言わない。
どうのこうので無事学校に到着し、授業も始まる。
男子中学生60人を操る?導く?先生方はやはりすごい。
ご希望のあった文言は「日本語をいっしょうけんめいべんきょうしましょう」で、いつもの巻紙で2本に分けて揮毫。
中学生60人に至近距離でぐるっと囲まれると結構な圧がある。至近距離にいる120の眼に自分の手元の動きを注視されているところを想像してほしい……そんなプレッシャー……降りるバス停を間違わないかどうかのそれに比べれば屁の河童、である。
デモンストレーションの後は実際に書いてもらう。文字は平仮名の「ゆめ」。はじめて筆を持った子供のとる行動は想像に難くない。「文字を書いている」という認識も日本人ほどあるわけでもないのも仕方のないことだ。練習用紙へ向かう彼らの、筆と墨という新たなツールによる自由に満ちた表現は想像通りだった。結局紙は真っ黒になるのだ。
で、本番用紙。持ち帰れるように手提げ部分をつけた専用ボードに書く。国は変われどこれは誰しも同じ。本番となればスイッチが入る。
素晴らしい。
彼らの「ゆめ」の書のなんと素晴らしいことか。
俺は「ゆめ」という、4本の線の作った集合体の表す意味をより深く知っているからこそ、各々のそれを「いいな」と思ったと思う。
作品を持った集合写真のときの自分の作品の推し出し具合もとても無邪気で素敵だった。
で、終了後、学校を出て帰りのバス停に向かう。
バス停を発見したはいいが、道のあっち側とこっち側にバス停がある。調べて撮ってきたルート地図のスクショはこっちのバス停を示している。しかし、「帰るには来た道」というごく一般的な論理に沿おうとすればあっち側なのだ。
ただ、来たときと同じバスには乗らない。別のバス(193)で別ルートでチャツに向かうバスに乗らないとお稽古に間に合わない。その別のバスのバス停がここだとスクショは言っているのだが、本当にそれで大丈夫なのか、SONYよ。
心労が増す。変なところに行きたくない。お稽古に遅れるわけにはいかないのだ。
そこへさっきの学校の生徒、もっと高学年の生徒が一人バス停にやって来た。すくいの神だ。眼鏡をかけてイヤホンで音楽を聴いているすくいの神だ。
俺は躊躇なく彼に尋ねる。チャツへのバス停へあっちなのかこっちなのか。
眼鏡の神は自分のスマホをちゃっちゃと操り、多少手間取りはしたものの「こっちで大丈夫」という確証を提供してくれた。
ああ、ありがたい。心労からの解放。ありがたい。
俺は老人にありがちなしつこいほどの感謝の言葉を彼が彼のバスに乗り込むまで発し続けた。神には感謝するものだと相場は決まっている。ただ彼の日本人に対する印象が「不安に満ちていて、しつこい」にならねばいいがとは思う。申し訳ない。
さてこれで心労が終わったと思ったら大間違いだ。今回は乗り換えがある。その乗り換えも微妙なところでの乗り換えなのだ。バスステーションみたいなところで優雅に乗り換えるわけじゃない。体感的にはサーカスの空中ブランコみたいなのである。やったことは一度もないけども。
例のごとく降りるところを間違わないように握りしめたスマホを凝視。それがまたどことも言えないマイナーなバス停だった。降りてから6車線の道の向こう側へ。そして思ってるのと違うバス停で次を待つ。
バスを待ったが、時間がきても一台め、二台め、三台め、四台め…と調べておいた来るはずのバス(280)が全然来ない。もしかしたら早めに行ってしまったのか。ここではよくあることだ。
と思っていたらチャツ行きとおでこに書かれた281のバスがこっちに向かってくるのが見えた。打開策はこれしかない。280は捨てる。281に賭けるのだ。
通り過ぎようとする運転手に、手を挙げてるだろ、おい止まれよ、とアピールしてやっとの思いで乗車してピッてして着席。
さあさあ、チャツ行きのに乗ってしまえばあとは安心。大船に乗った気持ちというのはこういうものだろう。船じゃないけども。とにかくやっと、本当にやっと心労から解放されたのだった。
教室に戻ってきてハッとしたのだが、バスがつらすぎたのか、自分が書いた作品の写真を撮ることも忘れていた。
というわけで、知らないところに自力でバスでいかなきゃならない心労は、観衆の中で大書パフォーマンスをするよりずっとずっとずっときつくてつらいということが分かっていただけたと思う。みなさんも参考にして欲しい。
まあ、もうブルックベールは制覇したので、どんとこいであるけれどもさ。
そのあとは中学生のお稽古をやって、そして欠かすことのできないボディコンバットへ。
めちゃめちゃ疲れた一日だった。
(ここまで読んでくれた方がいらっしゃったら感謝します。ありがとうございました。落ちはなく、すみませんでした。)
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