急いでキッチンに駆け込んだ俺は声にはせずに「なにーーーーっ」と言った。
爽やかな朝、お稽古の準備。墨を磨るための水を汲みに、容器をもってキッチンへ。
教室のドアを出て左に曲がろうとして体の角度をかえて一歩踏み出す。身体が完全に左を向く。
その視線の先にオージーの女性がいた。20代半ばというところか、もう少し若いかもしれない。リフトの前に立っているということは、それが来るのを待っているのだろう。リフトの正面にある職業紹介所から出てきた人に違いない。
彼女もこっちを向く。
俺の視覚が刺激される。目が合ったのだ。
あっという間に、という言葉があるが、それはご存知だろう。
ただ、世間にはあっという間より短い間がある。
そのあっという間より短い間で、俺の聴覚も刺激された。
ぶぅー、ぶぃぃーーっ、ぶぅーーー。
屁だ。
驚くべき音だった。
その彼女は、なんと俺の目を見ながら、
でかい音の屁を3発もかましたのだ。
今考えると本当に申し訳ないことなのではあるが、
あまりに咄嗟のことで、何の心の準備もしていなかった俺は
そのまんま目を見開いて、ええっっという口になってしまった。
そして、その俺の顔の変化を見切ったあとで、ぶぅーーっ、ぶっ、ぶっ。とご丁寧に残りっ屁までお見舞いしてくれた。
彼女と目が合ったままの俺は、本当にあまりのことにびっくりして、声を出すこともできず、急いでキッチンに駆け込んでしまった。
そして声にはせずに「なにーーーーっ」と言った。
いや、分かるよ。屁くらいでる。
出してももちろんいい。全然悪くない。
出物腫れ物所嫌わず、という諺もそれを全面的に擁護する立場に立っている。もちろん心情的には俺もそれを支持したい。
でも知らない異性としっかりと目が合った状態ででかい音で屁をかますのはやっぱりどうかと思ってしまう俺の心の弱さを告白しよう。神様ごめんなさい。
チーン、とリフトが到着する音が鳴って、ガランガランと扉の開く音がする。
ウッウン、と咳払いする彼女の声が聞こえ、
そしてガランガランと扉の閉まる音がした。
なんだか怖くて
暫くキッチンから動けなかった。