教えて欲しいからくり
さて、チャツウッドのフィットネスファーストにはオープン前、つまりそこがまだプラネットというジムだったときから通っているわけだが、ここ何年かは赴く時間もほぼほぼ決まっている。
時間が決まっていると、その時間帯によく見かける人物というのもでてくる。決まった曜日の決まった時間にジムに通っているという人間は少なくない。
人はジムにいろんな目標をもってやってくる。おデブ具合の軽減とか、ストレス解消。マッチョになりたい人もいるだろうし、現状の程よい体型キープが目的の人もいるはずだ。
トボトボとしか歩いてないおじいさんが水泳をやりに来てたりもするし、ひたすらサウナを出たり入ったりしている奴もいる。こいつと一緒になるとバタバタで出入りするし、サウナの中で変な体操するし、汗が飛ぶ。うざったいったらない。また単なる暇つぶしの人もいるだろうし、金だけ払っててちっとも来ない人もいる。いろいろだ。
その中の一人にロッカールームでよく見かける「日本人かなぁ」と思っている人物がいる。
俺は知らない人に話しかけるなんてことはまずないし、それにどうしても知りたいというわけでもないからその疑問はずっと抱き続けているわけだが、学生かワーホリかそのあたりの年恰好のその人物もいつも一人のようだし、誰かと話しているところも見かけたことはない(と思う。見たことがあったとしても記憶にはない)。
話しているのを聞けば、英語であってもどこの国籍だかは発音でまあまあ分かることがあるが、今考えてみると物理的に口を開けたところも見たことがないような気がする。そもそも口が開いたかどうかなんてまあ遠目には分からない。だから地球の言葉を話すのかどうかも確証はない。まあそんなのはいい。
その日本人かなぁの人は、決してデブではなく、全く枯れ木のようでもなく、ましてやボディビルダーのようでもなく、背はそんなに高くはないがシュッとしている。毎日ちゃんと適度なメンテナンスを行っている優等なマシンのような感じといえば分かりやすいのか分かりにくいのか。
ことさらに騒がず、不摂生することなく、無言で毎日決めたことを淡々としっかりこなしているような雰囲気がある(ロッカールームでしか見かけないので実際に何をやってるかは知る由もない。俺はボディコンバットのスペースにしか行かないし、その人は筋トレマシーンのほうなのだろう)。俺のように自己管理能力も意識も希薄で、意志まで弱い人間からすると羨ましささえ生まれる。
ある日のこと。といってもついこの間である。
俺はシャワーの後、鏡を見ながら髪にドライヤーをあてようとしていた。するとその鏡にロッカーのところにいる日本人かなぁの人が映る、が、ボクサーパンツ一丁ですぐにどこかへ消える。
俺は特に気にすることもなく両手に持ったドライヤーで髪を乾かす。両手がふさがって髪の毛をいじれないので、頭の方を振って髪の中に空気を入れる。変な人に見えるかもしれないが、まあまあ変なので仕方がない。
それより髪もまた随分長くなってきた。そろそろ切り時なのかもしれぬ。
と、また日本人かなぁの人が鏡に映る。どこかに行っていたのが戻ってきたのだろう。
と、俺の視覚にとんでもない光景が飛び込んできた。
あんまりびっくりして振り返ってしまった。
振り返った自分にまた驚いて、急いで再び鏡に向き直る。
自分の目を疑うという言葉があるが、言葉通り目を疑ったのだ。
自分のロッカーを開けて何やらやっている日本人かなぁの人。
マシンのようにシュッとしている雰囲気の日本人かなぁの人。
そのボクサーパンツ一丁の背面の腰のあたり、そのパンツの口からひらひらと、そう、ひらひらと白く漂って、そう、30センチ弱ほどのトイレットペーパーが美しくパンツから伸びて漂っているのである。
ええええええっ
と思ってしまうことに異を唱える人はいないはずである。
一体どうやってパンツの中から外に向かってトイレットペーパー垂らのか。
わざと? わざとなのか? え、違う?
わざとでないとしたら、どういう手順を踏めばそうなるのか。
うんちのあとにシリを拭いて、パンツをあげる。そして水を流す。
いや待て。シリを拭いた後に水を流してからパンツをあげるパターンもあるな。
パンツをあげてからシリを拭いて水を流す、シリをあげてから水を拭いてパンツを流す、あ、これはないか。
パンツから外に向けてトイレットペーパーを挟む。
それもヒラヒラ垂れるほどの長さの紙を挟む。
そんなこと俺の頭では考えられない。
魔法か?いや魔法とまではいかぬとも、手品か?手品なのか?
スタートはどこだ?
パンツの中のトイレットペーパーの端はどこに繋がっているというのだ。
こわい、こわい、こわい。
混乱している俺をさらに困らせたのは、日本人かなぁの人はそれに一切気が付いていないように見えるということだ。
もしかしたらファッション…という疑問をすぐに打ち消す。
いくら何でもそれはない。いくら彼自身がシュッとしているからって、シリからトイレットペーパーはない。
とすれば、知らせてやらねばならぬではないか。
幸い彼の隣でシャツを脱いでる人もロッカーの方を向いているので気が付いていない。
いやあ、でも何と言えばいいのだ?
初めて話しかけるんだぞ。
日本人かなぁ、と思っているだけで、どこの国の人だか分からない。だから日本語で話しかけるというのも変である。日本語で話しかけて「は?」って顔をされたらどうしたらいいのか。
かといって英語で話しかけるなんてのも気が引ける。もし日本人だったら気まずいではないか。
いやいや待て待て。例えば日本語で話しかけるとしても何て言うのだ?
「パンツからトイレットペーパー出てるよ。うんちの後流さなかったの?」
初めて話すのにそんなこと言えるわけはない。
流さない派の人だったらどうするのだ。
じゃあ、英語か?英語ならいいのか?
「Hey! It's super cool. It's in fashion?」
この英語が合っているかどうかも分からんが、聞くのか?こう聞いちゃうのか?
初めて話すのにそんなこと言えるわけはない。本当に流行ってても困るではないか。
できない、できない。俺にはできない。
そんなの怖すぎる。
俺が逆の立場だったら口封じに刺しちゃうかもしれない。
そんなこんなでどうするか迷っているうちに、日本人かなぁの人がズボンを履きはじめる。
えええ、待って。待って。俺はまだどうやって教えるのかその方法を決めかねている。待って、待って。いやもう待ったなし?履いちゃう?履いちゃう?あ、履いちゃうのね。
と、そこで奇跡が起きる。ズボンを履くときに手が紙に触れたのだ。
日本人かなぁの人は、「ん?何?」という感じで振り返り、それが何だか把握する。そしてピッとそれを破ったかと思うと急いで周囲を伺った。
やばいと思った俺は「見てない、俺は見てないよ。シリから出た紙なんて全然見てないから。」という雰囲気を取り繕うのにあたふたしてしまう。そのあたふたぶりが不自然極まりなかったとしても誰が俺を責められようか。
呼吸もしづらいほどのその場の空気にどうしても耐えられなくなった俺は、鏡の中の出来事をもうそれ以上見ることもできず、バタバタと片づけをしてとっととと言うか、さっさとと言うか、兎に角とるものとりあえず逃げ出してしまった。
だから、最終的な結末は見てはいない。
誰にも見られず、何事もなかった、そんな結末であってほしい。
またこれとは別の結末も可能だったろう。
俺が勇気を出して尾っぽとなったトイレットペーパーをむんずと掴んで「ちょっと分けて貰っていいですか」とでも聞けば「どうぞ。ひと契り2ドルです」「結構いい値段しますね」「ええ、人肌に温まってますしね」「なるほど人肌ですか。いいですね」などと商談がはずみ、友情が生まれたかもしれない。
その人肌ペーパーがきっかけで借金まみれだった日本人かなぁの人が億万長者にでもなれば回顧録も出よう。「あのときの君のことばには本当に救われたんだ」こんな言葉が書かれていてもなんら不思議ではない。
ああそうだった。日本語で話しかけるのかどうかの問題は残ったままだった。まあとにかくこの結末を迎えることはなかったわけだから気にすることもない。話しかけはしないのだからもう日本人かどうかなんかも知る必要がない。
ただひとつ、どうやったらトイレットペーパーがパンツに挟まった状態になるのか、そのからくりだけはこっそりとでいいから教えて欲しい。