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5・3 憲法記念日に考えたこと

 憲法を学んで良かったことは、世の中の理不尽に自信をもって間違っていると言えるようになったこと。憲法を知って自分が自分でいいんだと思えるようになったことは大きな収穫だった。

 「これって何かおかしくない?」と思ってもみんな文句言わないし、怒ってないし、我慢しなくちゃいけないという空気が蔓延していた。
 あったあった、学校でも職場でも病院でも…いろいろな場面で。
 あのときのわたしの違和感、もやもやは正しかったんだと思えた。

 一番好きな憲法の条文は第97条。

 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 ああ、自由がここにある!
 読むたびにぐっと胸にこみ上げるものがある。

 しかし「多年にわたる自由獲得の努力」は市民のときに血を流すような闘いを意味するが、良くも悪くも日本の場合は敗戦後、天皇主権から「八月革命」というウルトラC級的理論で突然国民主権となり「人権」というものがぽんと目の前に提示されるようになったから(沖縄だけがこの例外であったという点は忘れてはならない。)、日本人は「自由獲得の努力」というものが希薄なお題目としての「人権」理解しかないようにも思える。

 今の日本人の多くは人権なんてものの存在も知らないかもしれないし、知っていたとしてもそれを獲得するためにはぼーっと生きていてはダメで常に闘わなければいけないということを知らない。

 これを憲法学者・木村草太氏は穴の開いたコップに水がある状態や下りのエスカレーターを昇っている状態に例える。

 つまり、わたしたちの権利や自由というものは常にそれが侵害されていないか監視し、必要であれば闘わなければどんどん穴の開いたコップから水がこぼれ落ちるように流され、侵されていくものであるということだ。

 そうだ。
 ぼーっと生きてきた日本人は、アフガン自衛隊派遣に始まり、安保関連法の制定と平和憲法としての憲法9条を事実上反故にしてしまった。

 憲法の理念実現の主戦場はありふれた日常にあるとわたしは考える。
 だからごく普通の人たちがごく普通の生活の中で「おかしい」にちょっと勇気を出して声を上げることこそが大切なんじゃないかと。

 「意識高い系」の人々はSNSで人権ガー、自由ガーと言っていたり、週末はデモや運動に参加したりしていても、意外に職場の上司の理不尽にだんまり、障がいのある方が目の前で困っていても見て見ぬふり、学校で子どもが先生に理不尽な扱いを受けていてもしょうがないかと我慢していたりなんてこともあるんじゃないか。(デモや運動の意義は重要でありsns上の言論を全否定するものではもちろんない。)

 でも目の前の理不尽にだんまりしていたら「人権」は掴み得ない。生活での実践あってこその憲法ではないか。

 同調圧力がお家芸の日本社会でこれを実践するのは、ものすんごいエネルギー要することは実体験からもよくわかる。だって日本の学校教育では空気を読んで何も言わないことが正義だと学んだから。
 「それはおかしいです」なんてキリっと言ってやったものなら、変な人、めんどくさい人、あげくに集団から排除されるようなバックラッシュに合うことが目に見えているから、たいへん。そこはタイミングや言い方を気を付けて…としても、まあ、かなりたいへん。

 でも、これをみんなが少しずつしなければ日本はいつまでたっても成熟しない。

 市民の日常の小さな実践と意識の高まりがデモや活動という可視化された意思を後押ししてこそ社会を動かす大きなうねりに繋がると信じる。

 憲法改正案では、先の第97条はごっそり削除されているから笑うしかない。権力を縦横無尽に振り回したい権力者たちにとっては、市民の闘いの歴史なんて疎ましいものでしかないのだ。
 もっとも話題の緊急事態条項も災害時などの緊急時は措置法などで対処できるし、そのような仕組みは憲法にある。だから、まったく必要ない。権力を縛ることを目的とする憲法を緩和する方向に躍起になる権力者の欺瞞を見抜かなければならない。

 それよりも、時の権力が政権維持のためにとってつけたような大義で解散し、国民の多大な税金をつぎ込んで好き勝手なタイミングで総選挙をするということは由々しきことであり、解散要件の明文化が必要だと考える(衆議院解散要件の明文化)。

 また、天皇制はメリット、デメリットを考えたとき、もう日本人はこれを卒業すべきではないか。
 ご高齢の天皇が退位の意向を示した異例の会見やニューヨーク方面に逃げた新婚カップルへの人権なきバッシング、現代における男性天皇維持の困難。女性天皇を認めたとしても誰がその婿になり、その婿は世間からどんなプレッシャーを受けて生涯過ごすことになるのか等々を考えると日本人の「空気」として存在し続けた摩訶不思議な制度、天皇制はもう限界のように思うのだ。
   
                               2024年5月3日 憲法記念日記

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