世界は全て関係でできているー「わかるサイズ」の部分に切り取ることは複雑性の理解の放棄につながるー
この世界には基本的な『構成要素』として存在する確固たる基礎的な物体、部分があるのだろうか?
レゴを使って建物を建てるとき、いろんな色のブロックを使う。
レゴの製作物の世界ではその時使う『ブロック』がその建物の最小単位と言える。単位をなるブロックを積み重ねて多種多様な構造物が出来上がる。
では、レゴブロックが形作る世界のように、僕が生きるこの世界にも万物を形作る『最小単位』が存在するのだろうか?
物理学の世界の「最小単位の探究」
その探求は古代ギリシャ時代に現代でいう『原子論』を提唱したデモクリトスから、現代素粒子物理学者まで続いている
『原子』というものは現代では最小単位のものではない。原子は『電子』と『原子核』でできており、さらに原子核は『陽子』と『中性子』でできている。さらにそれらは『クオーク』と呼ばれる小さな構成単位でできている。
『電子』や『クオーク』は『素粒子』と呼ばれ、あらゆる物質の最小単位の物質(それは体積を持たない『点』なのか、大きさを持つものなのかはわからない)とされる。
物理学者は発見してきたそんなこんなで他にもいろんな種類の『素粒子』を
発見してきた。
そして、『今の時点ではそれ以上内部構造はわからない』とされている。しかし。それら素粒子も観測技術が発達したらまだ細かく分割できることが判明するのかもしれない。原子が原子核と電子でできていることを発見したように。
さらに、構成要素をどれだけ細かく知ったところでこの世界、『自然』の複雑性の理解には、究極的には寄与しないのかもしれない。
生命体は、部分の総和以上の複雑性を持っている
僕たちの人体はあらゆる器官・臓器でできている。しかし、もし各臓器を詳細に調べ、その臓器単独の性質を理解したところで人間という生命体の中の複雑な臓器間の繋がりを完全に理解することはできないだろう。
「各臓器という『部分』の全体」である「生命体としての人間という『全体』」は
それら部分の総和以上の存在だからだ。
臓器1+臓器2+臓器3+...器官1...=生命体ではなく、臓器1と臓器2が組み合わさることでできる、より高次の機能が発生しその機能はそれぞれの臓器の単体の理解では想像もつかないものなのだろう。
素粒子の世界もそれと同じかもしれない。しかしだからと言って、部分の理解が無駄になると言う意味ではない。ただ、部分の理解の先に、全体の理解は待っていない可能性があると言うことだ。
構成要素としての『素粒子』をもし仮に理解したところでそれらが織りなす相互作用は、恐るべき複雑性を内包している可能性がある。
部分と全体が織りなす世界のフラクタル構造
そしてどこまでも、『構成要素』として切り分けて行っても、待っているのはなんらかの相互作用によって生み出されている『全体』であり、しかもその全体はより巨大な構造の『部分』なのだろう。
僕たちの体を形作っている各細胞は『細胞』という『全体』でありしかも、各臓器の『部分』である
僕が生きる『社会』という構造物に対し、僕が住む「地域コミュニティー」はその部分でありその中の家族からすれば『全体』である。しかも、その家族の構成要因は家族の『部分』でもあるそんな階層構造が無限に続く世界を生きている。人間の理解は、他の人間や生命、物質との相互作用を看守した先にある。
基本的な構成要素を単独でずっと何もしない人間はほとんどいないだろう。さらに一人一人の人間自体も、『基本構造』の追求には終わりがなく、これまでの数多の他者との相互作用で練り上げられてきたものだ。
全ての構成要素はそれ単独で機能するのではなく、部分であり同時に全体であるという両面性を併せ持ち相互作用によってしかその性質を理解することはできないのだと思う。
もちろんその構成要素の深い理解は、それらが練り上げる構造物や相互作用についての理解には大きく寄与することは間違いない。しかし、「わかるサイズ」の部分に切り抜いて、その部分の理解をすることができれば、元々の構造物である全体を理解できると思うことは誤りだろう。
この世界は『部分』がわかったらその各部分の和集合となる『全体』を理解できる範疇の複雑性を超えているからだ。分解の先に待っているのは、無限の複雑性の理解の放棄なのかもしれない。
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すごく寒い季節がやってきてしばらく経ったこともあり、慣れてきた気がします。
凍える寒さはあともう少し。暖かい春が今年もきっとやってくる。
楽しみだ〜〜〜〜〜〜
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