本の感想13『乱読のセレンディピティ』外山滋比古
「セレンディピティ」
思いがけないことを発見する能力。
まず、本の内容を簡単にまとめる。
・今の時代本はあふれるようにあるから、良書にはなかなかたどり着けない。
・ゆっくり読むことを良しとする人がいるが、それでは文を殺してしまうものがあり、逆にリズム良く読むことで案外つかめることも多いよ。
他におもしろいと思ったことを書いてく。
もらった薬は効かない
本の著者は、ある時を境に出版した本を寄贈するのをきっぱりとやめたらしい。知人、友人にも本を送らなくなった。これはなぜか?
まず、本を受け取った側としては「読まなきゃいけない」という気持ちになって急に億劫だ。人によってはお礼の手紙も出さなきゃいけない。それには内容をよく読まなければいけない。
読む人にとって「書いた人間の顔がチラチラするのは本当の読書じゃない」という一種の名言もでてくる。たしかに、近しい人の心を揺さぶるのは容易でない。
あとは、「本はもらうものではなく買うものだ」とも言っている。もらったものはありがたくない。借りるものでもない。自分で吟味し、よいと判断することで、脳も重要だと思うようになる。身銭を切って読むことで、本気になれる。
これについては大の読書家でマイクロソフト元社長の成毛眞さんも、同じようなことをいってる。
「本は買え!貸し借りはするな!」と。自分の目で選んで、自分の金を出して買うという決心を通過した本は、ずっと重い価値があり、真剣に読める。(つまらなかったら躊躇なく放り出せ、とも言っているけど)
借りるもの、もらうものというのは他力本願で、おすすめされた本というのはどうも身に入ってこないのだろうか。
俺の場合は、オススメされたら、覚えておいて本屋でパラっとめくったりしてみて、良いと思ったら買うようにしている。最終判断が自分になるからこれは良いやり方だと自負してきる。
禁書目録の話
カトリック教会は昔から毎年、信者が読んではいけない本のリスト「禁書目録」を公表している。信仰上望ましくない思想を含んでいるとか、信者にとって有害と考えられたものをあげているリストだ。
禁書目録の発表で、それらを読むのを控える人が増えればいいけれど、逆にこの目録によって禁書になると、それまでなんとも思っていなかった本が急に魅力的になるということがある。実際にこっそり読む「不届きもの」がいっぱいいるらしい。
禁書になんかして名前を出すもんだから、これまで存在すら知らなかったのに知ってしまったという人もいるだろう。
信徒でない人も、カトリック自体に興味は持たない人でも、禁書を公表するとそういう本に興味を持ったりする。つまりカトリック教会は禁書という形でそれを推薦していることになり、一般に向かって「面白い本」「影響力のある本」という風に宣伝していることになる。
人間の性格的にも、おすすめされるより禁止されるほうが何かをしたくなるものだ。
これを、若者の読書離れに応用してみてはどうだろうか。近年、読書をする人が減ったと懸念されている。「もっと読もう」みたいなキャンペーンをしたところで逆効果だ。
いくら素晴らしい食べ物が目の前にあっても、おなか一杯であれば手を出す気にならない。
貧国の子供が勉強を欲するのは、環境がないから。昔の人々が食費を削ってまで本を買ったのは、貴重だったからだ。鎖国中海外の本を皆がほしがったのは、それが禁止されたからである。
このように「ありがたみ」や、それに対する「飢え」のようなものがあってこそ、ひとは対象に興味を抱き、より熱中できる。特に「禁止」されるものには、神秘がある。想像力を膨らませるものがある。
飢えれば飢えるほど、欲すれば欲するほど、それを思う時間が長ければ長いほど、魅了される。義務感や押し付けられている感はやはり良くない。何かやりたい、続けたいけどできないということがある人は、時間が有り余っているからか、自由の身だからかもしれない。
悪書が良書を駆逐する
「面白い本」と「ためになる本」があれば、たいてい面白い本が悪書に、ためになる本は良書になる。
お金の話で、悪貨は良貨を駆逐するというのが有名である。良貨はきちんと価値があるので、使うのはもったいない。良貨と悪貨の両方を所持していれば、進んで悪貨を使って手放す。というわけで良貨は温存され、やがてだんだんと悪貨が出回る。
このように、悪貨が強いのは流通することだ。
本の場合、人に理解されやすいものや一見薄っぺらで面白いと思われるものが良く出回る。だから、本屋のランキングにあるような小説とかって、読みやすくて万人が理解し感動できるからこそ宣伝される。マーケティング的にも、いくら良書でも売れなそうなやつは大々的に飾りたくない。
『精神分析入門』フロイト
こんなの宣伝したところでどの若者が買うんだ?という話だ。
論語読みの論語知らず
特に昔、文字の意味を理解していなくても読めればそれでよし、とする教育?というものがあった。今も絶対あるが。
読めるのと理解することは別のことであり、謎の風習は取り除かれたほうがいい。こどもは、それをおかしいと疑うことも出来ないのだ。
僧侶の唱える読経は、ほとんど意味が分からない。静かに聞いている人々みんな、意味が分からない。でもなんだかありがたいと思う。ありがたいものであるはずだ、意味は分からんけど。
これってけっこう怖い。頭おかしい。