生と死は類語
生と、死。
大多数のひとはこの2つの状態を、対極に置く。正反対のものだと考える。
自分もこれまで、それは当たり前のように思っていたし疑う余地もないように考えていた。でもいろんな本を読んでいくうちに、実はそうではないらしいと自分の中で変化してきた。
実際の本の中の言葉を借りて説明していきたい。
死は生の一部
「死は生の対極としてでなく、その一部として存在している。」 ノルウェイの森(村上春樹)
ノルウェイの森にでてくる主人公は、高校の時に親友を亡くす。そして、幾度とその親友や死に対して考えを巡らすうちに、以下のような思いを抱く。
死は、だれか(私やあなた)の中に本来的に含まれているもので、日常的にはびこっている。そこら中に存在している。
村上春樹の例えが秀逸だから、理解の手助けにさらに引用していく。
文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の横のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいチリみたいに肺の中に吸い込みながら生きているのだ。
死とは「あちら側」、生とは「こちら側」というようなものではなくて、死もこちら側の一部として常にまとわりついているというニュアンスだ。
生は死の一部
「(私はもうすぐ死ぬでしょう、的なセリフの後、)でもこれは何も恐ろしいことではない。無に帰るだけだから。」
私たちは本来無であり、つかの間のこの人生を楽しんだ後は、謙虚に無に帰るだけです。」
「(死んでから、火葬場で焼かれようが)原子そのものが壊れることはありません。もちろん消滅もしない。我々の身体をつくっていた原子は煙の中で空中に拡散していきます。つまり、この地球上に存在し続けるのです。そしてその原子達は、再び誰かの身体の構成物に成り得る。」 教団X(中村文則)
こっち考え方では、私たちはそもそも死=無の状態がデフォルメで、生=有は一時的に与えられたものだ、というもの。たしかにそうだ。「私」という存在は、世界からすれば、宇宙からすれば、この世という物語から考えれば、ほんの一瞬の些細な存在に過ぎない。俺なんか宇宙のチリに等しいのだ。いや、ネガティブなんかじゃないよ。
宇宙が誕生して以来、長い長い歴史とともにさまざまな生物が生まれては死んでいく。そのように無限のサイクルの中にたまたま私という存在が生まれただけに過ぎず、本来的には私が無である時間の方が圧倒的に長い。
宗教的な考え方、自然科学的な考え方からの生死観だなぁ。俺的には納得がいく感じがある。
まとめ
以上紹介した2つは、面白いことに考え方が反対だった。村上春樹式で考えると、生に死が含まれている。中村文則式でいくと、死の中に生がある。
人間、あるいは存在している生物や「私」本位で考えると、世界は今あるこの私を中心に存在する。
世界(宇宙や地球)本位、全体主義、物語主義で考えると、人間も生き物もたまたま生まれてくるもので、一つの流れにすぎない。
ただ、二つの考え方ともやはり生と死は相対するものではなく、どちらも同じ側にいるという点で共通している。対義語ではなく、類語なのだ。
おまけ
「この世界はまるでおもちゃ箱だ。生まれてから世界が与えられ、時間が来たら、はいおしまい。」
「結局は全て無になる」 東京喰種reより
たしか最終巻あたりにこんなニュアンスのセリフがあったと思う。
生とはこの世界に一時的に与えられたもので、悲しみも嬉しさも達成したことも全てはいつかなくなる。時間が来たらハイさよならと、閉じられてしまう世界。虚無てきな考え方で悲しんでいるのか、それとも今を大事に噛み締めながら生きようみたいな感じなのか、わからん。