本の感想33②『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
「服従」というものは、心理的にも構造的にも様々なジレンマに陥っていることが多い。あるいは組織構造の欠陥も浮かび上がらせる。それらをみていこう。
服従のジレンマ
◯特に悪意もなく、単に自分の仕事をしているだけの一般人が、破壊的で非人道的な行為をしてしまう。
たとえばヒトラーのもとでユダヤ人を大量に殺したアイヒマンも、「机に向かって仕事をするだけの凡庸な官僚」と捉えうる。彼は自分の立ち位置的に、どうしたら効率よく大量の人間を殺せるかを真剣に考えなければいけなかった。
◯責任の帰属すべき人物の消失
アイヒマンは、「上に従ったまでだ」「直接手を下したのは私ではない」と考える。彼の末端の部下の、直接毒を送り込んだ人間は、「上の命令に忠実に従っただけ」と考える。するとあら不思議、双方向に責任逃れができ、どちらも相手のせいにできてしまう。この構造に気づかない(誰かが責任を感じない)限り、虐殺は続く。少なくとも外部から攻撃を受けない限り。
誰がその行為に責任があるか、明確にしなければいけない。
◯一度攻撃してしまうと、その対象を非力(無意味)だとみなす。見下す傾向にある。
電撃の実験で、学習者に電撃を与え続けた被験者の中に、「彼(学習者)は無能すぎるから電撃が与えられて当たり前だ。しょうがなかった。」と言い出す人が少なからずいたという。このように、人間は攻撃してしまった相手(個人や団体、組織)に対して蔑むように考え始める傾向がある。
悲しいかな、人は心理的に自分の心の中の矛盾やズレを正そうとするのかもしれない。痛くなる心を癒そうとするのかもしれない。
嫌いな相手を一度攻撃してしまったが最後、どんどん嫌いになるしかなくなってしまうではないか。
価値観や道徳心なんてものは当てにならないかもしれない
これまで見てきたように、たとえどれだけ親孝行で、友人に限りなく優しく、動物に愛情を注ぐような人物でも、時と場合によっては忠順な殺人鬼になりうる。
新聞やテレビの報道がちょこっと変わり、徴兵局から電話があって、輝くバッチを付けてる軍服の人物から命令されるだけで、平然と人を殺すようになる。
人は、自身の道徳的基準とは一切相容れないような行動を無意識のうちにとってしまう。あるいは、強い権威に対して逆らえるだけの能力や勇気のある人物はかなり少ない。
こうなってくると、「価値観というものは人に影響するあらゆる力の中で、非常に弱い力しか持たないもの」のように思えてくる。
感想
権威に屈しそうになったら、何か選択に迫られるときになったら、「個人」を見るようにしたい。いちばん小さく考えたときに、誰が苦しみ、誰が命令を発し、誰が得して、誰が嬉しいのかなど。
世間、実験、常識、みんな、普通などなどといった実態は無いけれど大きな力を持つもの(ことば)に、屈さない脳味噌がほしい。