本の感想31『スプートニクの恋人』村上春樹
本の感想12『国境の南、太陽の西』で、村上春樹の作品に出てくる女性には霊的な何かがある、という風に過去に述べた。他の作品を読んでいくと、その真相に少しづつ近づけていく。
『スプートニクの恋人』で、今回はっきりと「あちら側、こちら側」という言葉が出てきた。
「鏡」という短編がある。彼は人間の世界を二面的に捉えているのかもしれない。あるいは彼の作品たちはそういう世界観なのかもしれない。
「ノルウェイの森」の直子も、「国境の南、太陽の西」の島本さんも、「海辺のカフカ」の佐伯さんも、みんな彼女らの一部分があちら側にいってしまった残骸が、今の彼女たちなのかもしれない。そして後戻りはできない。
さて、今回の作品でいうその立ち位置は、「ミュウ」という韓国人の女性だ。さらにミュウの一部分があちら側にいってしまった明解な事件も出てくる。閉店後の観覧車に閉じ込められた時に、自分の部屋で外国の男性と行為をしているもう1人の自分を眺めていたというものだ。性欲であったり、今のミュウには失われてしまったものたちが、もう1人の自分と共に「あちら側」にいってしまった。
(島本さんも時々消えていたけど、あっちの世界に行っていたということなのか?)
そのミュウに恋しているのが、「すみれ」という女性だ。主人公が恋している女性。小説家を目指して突き進んでいたけど、ミュウに熱烈に恋してしまうことでそれが一時止まる。
すみれは、ミュウと一緒に旅している最中に急に煙みたいに消えてしまうのだが、これは「あちら側」にいってしまったのではないかと主人公が気づく。そして、生きるための意思のようなものや、性欲などを持ったあちら側のミュウと満ち足りた時間を過ごしているのではないか。
すみれは、こっちの世界のミュウには全ての意味では受け入れてもらえていなかった。だから、あちら側に行った。行くことができた。まあ最終的にケロッと帰ってくるんだけど、ミュウのその後はというと、髪を黒く染めることもやめ、生気が完全に失われているようになっていた。
最初の方に、「すみれ」の名前の由来を2人が話している場面が出てくるんだけど、それがこの物語の伏線のように思えてならない。
すみれという名前は、モーツァルト歌曲集に出てくるもので、曲自体は非常に美しい。すみれもきっと素敵な内容だろうなぁと思っていたけど、中学生の時に学校の図書館で調べてみてショックを受ける。歌の内容は、
野原に咲く一輪の清楚なすみれの花が、どこかの無神経な羊飼いの娘にあえなく踏みつけられてしまうという。彼女は自分が踏みつけた花の存在にすら気がつかない。
ここでいうすみれの花はミュウで、羊飼いの娘はすみれだ。ストイックで、一部分を失いながらも洗練されて綺麗だったミュウが、あちら側のミュウをすみれにむさぼり尽くされてしまう。こっちの世界とも連携してるから、最終的にミュウは正気を失った抜け殻みたいになってしまった。すみれは、そんなこと考えもせずにミュウとの時間を楽しみ、楽しみ尽くした後に、まだ主人公がいるこっちの世界に戻ってくる。彼女はもとは小説家になることしか考えていなかったいわば世間知らずの無神経な娘だ。
うむ、どうしても俺には伏線のように思える。
村上春樹の作品は、いろいろな作品を読むことで他の作品も理解できるようになってくる。単体でも十分に面白いし、自分の中のものを見出すことができるけれども。この小説の中で主人公に言わせてることが、彼の小説に対する考え方を示唆しているんじゃないかとも思う。
あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されない方がましだ。
だから何冊も読まないと彼の作品(世界)は分からない。