本の感想63『ホモ・デウス』ユヴァル・ノア・ハラリ
人間は三重の現実で生きている
ネコは、またたびや公園の土管、ネズミの居場所など、自身に関係する客観的な外の世界をよく把握している。他方で、得体の知れないヘビへの恐れや、チュールを食べる喜び、快感など自分の中の主観的な経験も自覚している。このように、人間以外の動物は「二重の現実」で暮らしている、
それに対して、人間(サピエンス)は「三重の現実」の中で生きている。激流の川やピアノなど客観的に現実に存在するものがまず一つ。お腹が空いてラーメンを食べたくなったりヒステリックな隣人が怖いとおもう恐怖などの主観的自覚が二つ目で、ここまでは動物と同じだ。さらに人間の世界には、お金、神、国家、企業などについての「共同主観的な現実」、物語が存在する。
上にあげた四つの例(金、神、国、企業)は実際には存在しない。「お金なら千円札が、企業ならトヨタの本社ビルが実際にあるじゃ無いか」と思うかもしれないが、それらは第二の客観的現実に分類される。
第三の現実である例えば「トヨタ」という企業は、日本人のみならず、世界の人々が存在していると思うから存在している。親や兄弟、学校の先生など周りの人が信じていて、私も信じているから存在し、成り立つ。
お金も然り。この福沢諭吉が書かれた紙切れが、そこのコンビニでも使えるのは、コンビニ店員が価値があると思い込んでいるからだ。コンビニ店員はなぜ価値があると思うかというと、彼の家族や彼が働くコンビニオーナー、彼が普段買い物する先々の人々が全員その紙切れに価値があると信じているからだ。
これらの「虚構」を、否定しているわけではない。寧ろ逆だ。人間がここまで種として繁栄し、世界を牛耳ることができたのは、この「共同主観的な現実」があるからだ。
人々は、この共同主観的な現実によって、
より多くの人間と、より効率的に、より親密に
協力する力を得ている。
人間が繁栄した原因は、言語や道具や身体の器用さではなく、この想像力だ。
日本人は共同主観的な現実を呑み込みやすい
ここからは自分の考察や感想。「坂の上の雲」という日露戦争について書かれた小説がある。この時代の日本人は、戦争に備えて狂気ともいえるスピードで海軍をつくり上げているが、悲惨すぎるほど生活が困窮していた。
政府の財政のほとんどが軍事費に使われたりで、よく国民から反発が無かったと思われるが、当時の日本人たちは逆で、文句も言わず耐え、協力した。
他国の軍隊に比べて、日本兵は士気が高く、忠実で、命令に忠実だったともある。
これらは、「天皇崇拝」や「国の繁栄には戦争が必要」という思想に日本人が非常に強く染まっていたからだと思う。他国ももちろん同時期には同じような帝国主義的な考え方や、神への崇拝はあっただろうが、日本人全体の方がより強く信じていたのだろう。
日本人がブランドに弱いのも、まさにこれなのではないか。より裏付けていると思う。
「周りの人間がそのブランドに対して価値が高い、レベルが高いと思って信じているからそのブランドの価値が高い」という共同主観的な現実への強い信仰がブランドの本質だ。
日本人は、良く言えば
人々がより強く協力できる「共同主観的な現実」を張り巡らせる能力が高い。
のだ。