2024/11/07
昨日の落ち込みから立ち直れていない。
親のこと、どうしても受け入れられないから、話を聞いてくれる彼がいてくれて本当に良かったと思う。そう思った流れで、超久しぶりに短歌が詠めた。そのついでに朝ツイッターを見ていたら、伊藤紺さんの短歌が流れてきた。
そうだよなあ。家族に言われたら終わり、と思うけれど、家族の意見なんて一意見でしかなかった。世界はもっと広いし、私のことを1番近くで見ていなくたって、その人がもつ輝きとか、その人の気持ちとか、分かってくれる人はきっとどこかにいるはずだ。
先日、中島敦の『山月記』を読んだ。学生時代に読んだ時よりも今の方が李徴の内面に共感できる所があって、それは私の中に静かに沈んでいった。中島敦はどうしてこういう描写ができたんだろう、どうして山月記を書こうと思ったのだろう。そう思って調べてみると、あまりにも……な人生だった。
中島家は漢学一家、教員一家の家庭だった。父母は敦が幼い頃に別居をし、離婚をした。次いで母になった人とも敦はうまく行かず、その継母は子どもを2人産んですぐに亡くなる。その子どもらも生まれてすぐに亡くなり、唯一敦の才能を買っていた叔父も亡くなってしまう。
しかし敦は中島家の中でもトップレベルの秀才で、それは小中においてもだった。幼い頃から文才があり、父の仕事の都合で朝鮮で中学時代を過ごしていたが、そこでも成績トップだった。帰国し、東大文学部へ進学。この頃から作品を書き出すが、思わしい結果にはならなかった。25歳の自分は、もう何者かにならなければならないのだと、しかし才能がないのだと、才能がないということは、才能がない男が裸になるようなことだと、かなり自身の現状に焦っていたようだった。
卒業後は横浜高等女学校へ就職。国語と漢文をメインで教えていたそうだ。生徒からの人気もあったようだが、持病の喘息が悪化し、仕事が続けられなくなり、教員を退職。喘息の療養を兼ねて、南洋庁の編修書記となりパラオで教科書の編纂に携わったそうだ。しかしその土地はただ生きていくことだけで精一杯の環境で、かえって良くない状態へ敦を追いやることになるものだった。
帰国後、大学院の頃書いていた「山月記」がようやく「文學界」に掲載される。そこからいよいよ作家としての日の目を見ることになるが、帰国後は悪化した喘息とその服薬の影響で心臓が衰弱し、南洋庁に辞表を出して専業作家になってわずか3ヶ月で亡くなってしまった。33歳だった。「書きたい、書きたい。」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい」というのが、最期の言葉だったという。
ここまで読んで、思わず涙が滲んだ。「山月記」に描かれる李徴の葛藤や、自尊心、後悔などはすべて敦自身が身をもって経験していたものなのだと思う。心が痛かった。才能がある、と周りから言われている人でも、自分自身の作品が世の中からなかなか認められないことに悩んでいたし、でもそれを何年も諦めずに純粋に立ち向かって行ったそのたゆまぬ努力には心動かされるものがあった。
敦は、自身が体が弱かったからか、息子らに、「頭なんか、ニブイ方がいい。ただ丈夫でスナオな人間になってくれ」と話していたという。さらに、「普通の役人や会社員で終る人間ならそれはそれでいいが、もし学問や芸術を求道する人間だった場合にはたとへ餓死しようとも、自分の志す道から外れて、よその道に入るやうなことは、させ度くない」と言っていたそうだ。
何年も前の、昔においても人間が何に悩んでいるのかは何も変わっていないと思う。そういう悩みにきちんと向き合い、解決しようとしたのが中島敦のような文豪たちなのだと思う。文豪たちが遺した作品を読めば、その解決口が見つかるかもしれない。見つからずとも、同じようなことでこんなに昔の人間も悩んでいたのかと思えれば、少なからずは孤独感が和らぐかもしれない。
文学作品読もう。
※本当はきちんと文献をたくさん用意して様々な角度から彼の人生を見るべきなのだと思うけれど、都合上限られた時間の中で読むしかなかったのでWikipediaに頼りました。でも結構わかりやすく系統立ててまとまっていました。