見出し画像

【ネタバレ注意⚠】アニメの文学性が否定された日(『すずめの戸締り』 感想)

『すずめの戸締り』の感想が固まった。
メタすぎる内容で正直あまり書く気が起きないが、ゆっくり少しずつ書いていこうと思う。

まず、映画を見終わった直後の感想は、「ブラボ〜」だった。心から拍手をしたくなった(ギリギリしなかったけど)。こんなに素晴らしいのに、なぜ誰も拍手しないんだと思った。
映画館を出た時、世界は少し鮮やかだった。そして何より、久しぶりに旅行をしたくなった。旅をしたい気持ちを思い出した。
とても"よい"とおもった。

映画は、とても"よ"かった。

しかし、2つの違和感が僕の精神に残り続けた。1つは、映画は限りなく"よかった"のに、なにか、ちょっとした、でもはっきりとした不満足感があること。2つ目は、映画は本当に信じられないくらい面白かったのに、いくら考えても感想が「よかった」しか出てこないことである。
それらの違和感は鑑賞後時間が経つにつれて大きくなった。それについて、御茶ノ水のスターバックスでしばらく考えた。
その時は、「泣けなかったから」だと思った。"感動的"なストーリー仕立てなのに、その感動物語の背景が意図的にぼやかされているような場面があったからだ。具体的には、主人公と男の子との関係の部分である。彼らの接点は結局初めのシーンの「あっ──(スロー再生)」以上でも以下でもなく、
本当にそれ以上でも以下でもなく話が進んで、なんと、そのままなんの回収もなく終わる。だからその2人の掛け合いに感情移入はできない。こんなことは普通は許されない。ミスでこんなことをするわけが無い。恐らく、冒頭のシーンを泣き所として持っていきたかったからだろう。粋だね。と思った。

そのときはそれで納得した。泣けなかったから不快なのだと。

しかし、家に帰っても、まだなにか気持ち悪さが残っていた。
"意図的に恋愛要素を軽くした"というところがやけにひっかかったのである。
別に、恋愛要素を軽くしたところで、ラストシーンの重みは変わらないのではないか?彼との愛と関わりがあってすずめが成長したのではダメなのだろうか? そんなわけないだろう、最後のシーンで「これから色んな人を好きになって」とか何とか言っていたではないか。男女の関係をスカスカにすることは、単純に映画をスカスカにする行為に他ならないのではないか。『言の葉の庭』を作った新海誠が、 "出来なかった" ということは考えられない。"やらなかった"はずだ。何故?なぜなのだ。なぜそんな意味のわからない酷い選択をしたのだ。それは人間の精神に対する冒涜の類いではないか。おかけで俺は、泣けなかったぞ。主人公たちは泣いているのに。おまえはそれで何を作りたいんだ。なにがしたかったんだ。なにを作ったつもりなのだ。

……このように何故かとてつもない腹立たしさを覚え、どうしようもなくて、とりあえずお風呂に入った。すると、僕は自分が抱いた感想を思い出した。

まず、映画を見終わった直後の感想は、「ブラボ〜」だった。心から拍手をしたくなった(ギリギリしなかったけど)。こんなに素晴らしいのに、なぜ誰も拍手しないんだと思った。
冒頭より
映画館を出た時、世界は少し鮮やかだった。そして何より、久しぶりに旅行をしたくなった。旅をしたい気持ちを思い出した。
とても"よい"とおもった。
冒頭より

……。


……やりたいことは、これだけだったのか?

……これを、なるべくたくさんの人に、届けたかったのか? 

…だから、家族でみてたのしめるように?
…え?  男女の関係を?
スカスカにしたのか?


思えば、確かに、この映画は、親と見ても何も気まずくないだろう。何も不快にならない。十分に楽しめる。一人で見るのと比べて、何も変わらない。こんなアニメは正直ほとんどない。というか、俺はそんなアニメを、マンガを、小説を、知らない。
ニュース、旅番組、天気予報、、、こういったものは例えば、そうだろう。ひとりでみても、誰とみても、誰が見ても、その内容をしっかり受け取れる。

──おまえ、ほんとうにそれでいいの?

すずめの戸締りは、面白い。そして、それは美しくおしとやかに、素晴らしい 世界の見方/生き方 を提案する。しかし、しばらくして僕は、えも言われぬ不快感・怒りに襲われた。それは、その"アニメ映画"が、小説ではなく、旅番組であったことに対する不快感だった。

旅を描く小説と、旅番組の違いはなんだろうか?


感想が固まった。
すずめの戸締りは文学的でないから嫌いだ。

思うに、新海誠さんは、骨の髄から "影響力のある映画監督" になってしまったのだ。

でもよ、新海誠さん。
お客と"アニメ"、どっちを取るんだい?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?